12.05
要するに、国民は等身大の政治しか持てないということではないか。
「桜を見る会」を巡る菅官房長官の発言が批判を招いているようだ。
まあ、前々から木で鼻をくくったような答弁をする人だなあ、記者連中はどうしてもっとつっこまなのだろう、と不思議に思っていたが、反社会的勢力(というから、暴力団? ブラック企業の経営者?)がいたかどうかで、いたようなことを一度は言い、翌日は
「反社会的勢力が会に出席したと申し上げたわけではない」」
と翻した。
ほかにも、会の参会者名簿をシュレッダーで亡き物にしてみたり、出席者名簿のバックアップデータは行政文書ではない、と発言したり。全くもって、我が道を邁進されている。安倍首相の迷答弁といい勝負である。
自民党政権にはあまり心地よい感じも持てないでいる私だが、ここまでひどい答弁を繰り返す内閣は記憶にない。
これは戦後最長不倒距離を伸ばし続けている安倍内閣の奢りの表れだ、というのが批判する側が主張することである。それを否定するわけではないが、
「それだけか?」
と天の邪鬼の私は考えてしまう。
要は、嘗めきっているのである。何をしようと、何を言おうと、どれだけ批判の声が出ようと、
「だったら、俺たちから政権を奪ってみろよ。できないだろ!」
と彼らは態度で示している。
まあ、事実、そうなんだよなあ。自民党政権が終わる兆しが見えない。というか、今の野党が政権の座に着く姿が全く思い浮かばない。だから、
「野党とマスメディアのだらしなさが安倍内閣の奢りを支えているのではないか?」
と言ってみたくなる。
まず、野党。
かつて社会党に楢崎弥之助という議員がいた。社会党自体は、今になってみれば自民党の補完勢力以外の何物でもなかったと私は思うが、この楢崎さんは面白かった。後に社会民主連合を立ち上げるこの人は、別命、「国会の爆弾男」である。
中でも記憶に残るのは、各界のエスタブリッシュメントたちに未公開株をばらまいたリクルートコスモス事件だ。国会でこの事件を追及していた楢崎に、リクルートコスモス社が賄賂を贈ろうとした。楢崎は賄賂収受の現場を日本テレビに隠し撮りさせて放映させた。この暴露戦術で自民党人気が一気に暴落し、自民党一党支配の終焉につながった。
それに比べて、今の野党はどうか。国会での追及を見ても空振りが多いというか、鵺(ぬえ)のように言を左右にして逃げ回る政府を追い詰める技に欠ける、と私は思う。今の野党に足りないのは、政府を追及するためのデータの集積である。
国会議員は国会で偉そうな顔をし、選挙区に戻って支持者の人気取りをしていれば済む、というものではない。何よりも、いま日本がどうなっているのか、何を変えたらいいのかを知るためのデータ集めが必要な仕事である。大学や勉強家で学ぶことも必要ではあろう。だが、何よりも欠かせないのは生のデータ、事実の集まりである。学んだ知識を頭の中でこねくり回すような追及は空回りする。政権に合口を突きつけるような追及には、生のデータが、事実、また事実の積み重ねが絶対に欠かせない。政府が集めたデータではなく、自分の足と人脈で集めたデータ。それを集めることを「日常活動」といい、日常活動を続ければ足腰の強い野党になるのではないか。
立憲民主党をはじめとする今の野党の議員たちを見ていると、成績優秀な大学生、大学院生がそのまま国会に席を占めているように思えてならない。真実はすべて教科書の中にある。その真実からすれば……、という論法では、修羅場をくぐり抜けてきた海千山千の連中と対等以上に闘うのは、夢のまた夢だ。
国会で政府を追及するネタを週刊誌の報道に頼っているようでは、政権に手が届くはずがないと嘆くのは私だけか?
新聞、テレビの記者さん方も同じである。政争がらみのスクープはほとんど週刊誌に先を越されて、大新聞、キー局、国営放送(ではないのだが、そう書きたい気分になる)の名が泣くぞ!
さて、ヨタヨタ状態になってきた菅官房長官を、野党とメディアはどこまで追い詰めることができるのか?
とはいえ、元はといえば、安倍内閣に絶対多数を与えた国民に諸悪の根源があることはみんなが自覚すべきだと思う。所詮、国民は等身大の政治しか持てない。今の安倍内閣の振る舞いは、今の日本国民の映し鏡に過ぎない、と断定してしまうのは行き過ぎか?
もっとも、今の野党の体たらくでは、選びようもないわなあ、という嘆きも私の中から出てくるのだが。
「桜を見る会」騒ぎを横目で見ながら、そんなことを考えた。