2022
09.23

汚れた金まみれのオリンピックなど止めたらどうでしょう?

らかす日誌

今朝の朝日新聞が、またまた金にまみれた東京五輪の醜い姿たを暴いている。玩具メーカーが自社商品を五輪公式マスコットにするため800万円を贈賄した疑いがあるそうだ。これで電通元専務・高橋治之がからんだ疑惑は、まず紳士服のアオキに始まり、角川書店の会長に進み、金額は微々たるものだが、おもちゃ屋さんにまで広がった。それに森喜郎がからんだ疑いもあり、さて、何処まで広がるのやら。あぶり出される偉いさんたちの暗躍の奇跡からしばらく目が離せそうにない。

いや、一連の事件が発覚した当初、つまり高橋治之の名が報じられ始めたときは、私は眉に唾をつけながらニュースを見ていた。顧問料として受け取っていた金を賄賂と見なすことができるのかどうか。彼がアオキの顧問になっていたことは事実であり、だとすれば顧問料を受け取るのは、金額の多寡はあるとしても当然のことである。それを賄賂と見なすことができるのか。なにしろ検察とは冤罪を作り出す国家機関である。

「起訴まで持ち込めるの? またまた検察が悪人をでっち上げた、なんていうことにならないか?」

と疑っていたのである。
だが、ここまで来るともういけない。東京五輪は汚れた金にまみれていたというしかない。

ご承知のように、私は東京五輪招致運動が繰り広げられた頃から、2020年に東京で2度目のオリンピックを開くことに疑問を呈し続けてきた。いま、何故東京なのか。1964年の東京五輪には日本の戦後復興の姿を世界にアピールする意味からも開催する利点が多々あったと思う。しかし、2020年に、繁栄を極め、すでに下り坂に入っているかも知れない日本の首都、東京でオリンピックを開く意味が何処にあるのか。どう考えても納得ができなかったからである。

まさか私が反対を唱え続けたからではないだろうが、2020年の東京五輪は新型コロナウイルスの襲撃を受けた。1年延期してもコロナ感染は治まらず、それなのに翌2021年に無理矢理開催したことは、政治のごり押しとしか思えなかった。東京五輪中止を勧告した朝日新聞の社説に同志を見出したのはそのためである。
そしていま、五輪汚職が次々と暴かれるのを見ると、

「ああ、この金の亡者どもが、何ながんでも開催しなければと暗躍したんだろうな」

と思う。開催か中止かを決める権限が誰にあったかは知らないが、少なくとも権限の一部を持っていたと思われる当時の首相、我らがガースーさんやJOC(日本オリンピック委員会)会長の山下泰裕氏は、薄汚い金の流れの外にいたのかどうか。

そもそも、2020年東京オリンピックでは、誘致の段階から汚職が疑われた。関わっていたのが高橋治之だった。9億円近い金が高橋の講座に振り込まれており、恐らくその金を使ってIOC(国際オリンピック委員会)の理事へのロビー活動に高橋は奔走したそうだ。この時、高橋のもとから多額の金があちこちにばらまかれたと疑うのが自然で、いまでもフランス検察当局が捜査を続けている。

この疑惑が本当だとすると、高橋は外では贈賄を繰り返し、内では収賄を重ねていたことになる。オリンピックは天文学的な金の用意がなければ開催できなくなって久しい。うずたかく積み上げらた金は必ず腐り始める。いまやオリンピックは汚物まみれとなり、その象徴が高橋であると言ってもいいすぎではないだろう。
こんな国際競技大会を続けていく意味が、果たしてあるのだろうか?

話は少しそれる。
朝日新聞記者としての私の初任地は三重県津市であった。赴任して2年ほどたったとき、三重県で交通事故死者が急増した。私は支局長の命を受け、交通事故をなくすキャンペーン記事の連載を始めた。

県警交通部で県内の実情を聞き、事故撲滅にむけての取り組みを取材した。警視庁の科学捜査研究所に出かけて、科学的な見地から交通事故をなくす手法はないかと質問した。交通行政の先進地といわれる世界の都市は交通事故を抑え込むどんな政策を採用しているのかを本から読み取った。

記憶に残るのは科学捜査研究所で聞いた話である。飲酒運転と事故の関係を教えてもらっていたときのことだ。

「実はですね」

とある研究者がいった。

「アルコールを体内に取り込むと、反応時間が遅くなります。だから飲酒運転は危険なのです。それで私たちは、体内に入ったアルコールの量と反応時間の関係を調べたのです」

なるほど、飲酒運転に対する科学的アプローチとはそういうものか。

「ところが、思いがけない結果が出まして」

思いがけない結果?

「体内アルコールの量が一定の値を越すと、反応時間は急激に多くなります。ところが、そこに至らない少量のアルコール濃度では、反応時間が逆に速くなったのです」

えっ、ということは少量の酒を飲んだ方が運転は安全になると?

「ええ、理論的にはそうなります。ただ、私たちの立場上、そんなことは口が裂けても言えませんけどね」

口が裂けても言えない。飲酒運転撲滅を訴えている警察の一員としては確かにそうだろう。だから、いま取材しても同じ話は聞けないと思うが、私がこの話を聞いたのは事実である。ただ

「これは書いてもらっては困りますけどね」

といわれ、記事にしなかったのは、記者として正しかったのか、間違いだったのか。
ついでに、私は長い間、飲酒運転は一切していないことを明言しておく。「長い間」の前はご想像いただきたい。

それはそれとして、私は取材結果を基にして確か15回の連載記事を書いた。どんな内容の記事を書いたのか、いまとなってはほとんど記憶にないのだが、1つだけ明瞭に覚えている。連載の締めくくり、15回目に私は

「交通事故の原因は車である。車をなくさねば交通事故はなくならない」

という趣旨の記事をまとめたのだ。

車がなければ交通事故は起きない。理の当然である。が、余りに単純な結論である。
しかし、現代社会は一定のリスクを受け入れることで成立している。原発ほどではなくても、水力発電所にしても火力発電所にしても、想定外の事が起きればたちまち人々に死をもたらす凶器になる。単純な機械の自転車だって、ぶつかれば怪我をし、場合によっては死につながる。だからといって、発電をするな、自転車を全廃しろ、といっては現代生活は成り立たない。ありうるリスクをコントロールして我々の生活との共存を図る。そんな技術の積み重ねで現代文明は成立している。人に移動の自由が必要なら、車はなくてはならない現代の利器である。

いまならそう思う。しかし、15回目に書いた「車全廃論」は、当時の私が考え抜いた結論だった。そして、不思議なことに、その原稿が新聞に掲載された。いまだに私が

「なんであんな事を書いたのだろう?」

と後悔を伴って思い出す過去である。
それに、である。私の原稿をチェックする責任がある支局のデスク、支局長の目を通ってこの記事は掲載された。だとすると、この2人にはまだ視野が狭い若い記者の暴論を抑える見識が欠けていたらしい。ま、朝日新聞とはその程度のものかも知れないが。

そんな苦い想い出がある私である。何かに問題があるとしても、問題を解消するためにその「何か」を根こそぎ処分すべきだという単純な結論には慎重である。テレビが故障すれば、買い換えるよりも修理を試みるのがいまの私である。

だが、オリンピックに関しては「根こそぎ」にしたくなる衝動が私の中にある。アマチュアスポーツの国際的祭典という基本は忘れ去られ、いまやプロとしてそのスポーツで飯を食っている連中が出場する。アマチュアであれば力量を試す機会は多くはない。しかし、プロスポーツ選手は、日々力量を試すことで生活の資を得ているのである。なにゆえにオリンピックでまで競わねばならないのか。
どれとは名指ししないが、

「えっ、それってスポーツだったの? 街での、海での遊びとしか思っていなかったんだけど」

という競技が次々と採用される。恐らく、オリンピックの収入基盤を広げようという狙いがあるのだろうが、それでいいのか?

そして、汚れた金にまみれているように見えるオリンピック貴族たち。

国際政治、外交、内政上の手段としてオリンピックを使う政治家はヒットラー以来、数多い。習近平の北京五輪も同類だろう。

こんな競技大会が本当に必要なのか?

あなたは、それでも必要だと思われますか?

玩具メーカーの贈賄疑惑は、今朝の段階ではNHKも報じていないので、朝日新聞のスクープらしい。久々の朝日スクープを読みながら、様々なことを考えてしまった私だった。