12.22
下半身麻酔の悪夢
私が病室のベッドに横たえられたのは午後8時頃だった。横隔膜まで痺れさせた麻酔薬は少し力を弱めたようで、咳をするのに不便はなくなった。だが、下半身にはまだ感覚がない。
ベッドに移された私の身体は、2、3枚の布団で覆われた。
「どうですか?」
と看護師さんが聞く。
「少し寒気がするんだけど」
と答えると、
「そうなの? 電気毛布も掛けてるんだけど。設定温度が低すぎたのかしら?」
と温度設定を調べてくれる。部屋のエアコンは確か25℃に設定されていたはずだ。それでも私に電気毛布が掛けられているということは、半身麻酔されると寒気を感じるものらしい。
「あれ、でも適温になってるけどね」
電気毛布の設定温度を調べてくれていた看護師さんがいった。
「いや、それなら大丈夫でしょう。そのままでいいですよ」
と返事をすると
「ほかに何かある?」
いや、何もない。第一、感覚のない下半身を抱えて、何をしてもらったら快適さが増すのか、私には知識がない。
「それじゃ、何かあったらそのボタンを押してね」
と全員去って行った。壁にコードでつながったこのボタンを押すと、担当の看護師さんと会話ができるらしい。
みんなが去った病室で私は1人である。下半身の感覚はないが、頭ははっきりしてる。こんな時は早々と眠ってしまえば不自由な下半身のことも頭から消え去り、目が覚めれば私の腰と両足が元の場所に戻ってきているはずである。だから眠るのが最善の選択肢なのだが、あいにく全く眠気がない。
退屈である。こんな状態でできる退屈しのぎは読書しかない。朝から読み始めた「嫌われた監督」を読み継ぐ。
「嫌われた監督」。中日ドラゴンズの監督だった落合博満さんを書いた本である。3度も三冠王に輝きながら、球界の変わり者として知られる人物だ。この書名によると、彼は嫌われ者でもあったらしい。
何故彼は嫌われたのか。この本によると、徹底的に野球で合理性を追求したからである。合理性に徹したクリスキットを設計し、パーツセットとして売りながら、合理的な受け答えができない注文客を敵に回して平気だった桝谷英哉さんの野球人版というところか。
秋田県男鹿市に生まれた彼は、秋田工業高校に進む。中学校の野球部では1年生の時からエースで4番だったためだろう、多くの野球名門校から誘いを受けた。その中で秋田工業を選んだのは
「選手をあまりいじらない」
と聞いたからだった。彼は徹底的に俺流を貫く。その俺流はこの頃早くも芽吹いていたらしい。自分の野球スタイルに絶対的な自信を持ち、人に口出しされることが大嫌いだったのである。
ところが、やっぱりいじりはあった。運動部に付き物ともいえる下級生虐めもあった。理不尽に上級生から殴られた。やがて彼は、俺流とは相容れない部活動に背中を見せる。野球をするために入った高校である。野球をしないのなら学校に行く意味はない。こ学校をサボり、市内の繁華街の映画館で時間を過ごした。
それでも、である。野球部の対外試合がある日曜日には、野球部員が呼びに来た。
「今日、試合いなんだよ。来てくれ」
どうです、こんな男、魅力を感じませんか? すごいことに、彼は野球界を去るまでこのスタイルを貫いてぶれない。自分の野球理論に絶対的な自信を持ち、自信の分だけ成果を出す。こんな男が何故嫌われたのか?
それはこの本を読んでみてください。私、退院後、この本をすでに3人に勧めました。1人はすぐにAmazonに注文しました。もう1人は
「あ、それ読みましたよ。面白かった!」
といいました。3人目は、さてどうされるか分かりません。
話が横道にそれた。私は病院のベッドに横たわっているのである。
読書に熱中しながらも、やはり下半身は気になる。時々足を動かしてみようとするが、脳が出した指令が何となく足先にまで届いたような気にもなるが、足は頑として動かない。不思議な感覚である。まだ麻酔が効いているらしい。
1時間ほどすると左の足首が少し動くようになった。麻酔が切れ始めたか。だが右足はまだ石膏のように固まったままである。
読書に戻る。
お、これ、ひょっとしたら左足を動かせる? 慎重に膝を曲げてみる。おお、曲がったよ少し! 右足はまだだ。
三度読書。
さて、やっと両足の自由がおおむね戻ったのは11時頃だったか。手を延ばして下腹部、大腿部に触ってみると、先程までは湯の入ったゴム袋だったところが私の身体の一部に変身している。ああ、やっと私に戻れたか!
少し寝てみることにした。うつらうつらして目が醒めたのは午前1時前である。両足はほとんど我が物になっている。
目を下半身にやる。腰のあたりからビニール製のチューブが伸び、ベッドの右側に垂れている。ああ、そうだった。お医者さんがこんな話をしていた。
「下半身麻酔をしますから、膀胱も眠ってしまいます。でも、腎臓は仕事をやめないので尿はできます。尿はできるが、腎臓は眠っている。つまり排尿ができない状態になりますので、カテーテルを陰茎の先から膀胱まで差し込み、尿が自然に流れ出るようにします」
なるほど、いま見ているビニールの管が、差し込まれたカテーテルか。しかし、直径は1㎝弱はあるんじゃないか? 私が知らない間にこんなものが差し込まれているとは……。
でも、おかしいな。お医者さんの話に寄れば尿は自然に流れ出るはずだ。それなのにいま尿意を催しているぞ。できればトイレに駆け込みたい気分だ。膀胱にたまっている尿を出さなきゃ膀胱が破裂寸前になるんじゃないか?
足には感覚が戻った。だからトイレまで歩くことはできそうである。だが、こんな管をぶら下げてトイレに行けるはずはない。
そうだ。この管は尿を流し出すためのものだから、この管から尿を出せばいいのではないか? と思って管を見ると、ところどころに尿らしい液体が見える。よし、こいつを早く流してやろう。そうすれば膀胱にたまっている尿も出て行ってくれるのではないか? 管の上の方を持ち上げ、重力を活用して管の中の尿を下にあるはずの袋に落とそうと努める。
少しは落ちた。これで尿意は消えるはずである。それなのに、膀胱が膨らんだ感じは一向に消えない。ああ、トイレに行きたい、ちょっと、これどうなってんの?
やむなくナースコールボタンを押した。
「どうしました?」
スピーカー越しに看護師さんの声が聞こえる。
「いや、ありえないはずなんだけど、強い尿意があるんです。私、どうなってるんですか?」
すぐに看護師さんがやって来た。私のあそこから出ているビニールパイプと、それにつながる袋を点検する。
「おかしいですね。尿はちゃんと出てますが」
「それでも強い尿意があるんです」
「多分、異物を差し込まれた膀胱が変に反応しているのでしょう。膀胱に尿は残っていないはずです。このまま眠ることはできませんか?」
「いや、これだけの尿意を感じてたら眠るなんてできないよ」
このようなやりとりの後、看護師さんはいった。
「膀胱の機能が完全に回復する朝までこのままで行った方がいいと思うのですが、だったらカテーテル抜きますか? これから朝までだったら、それほど尿もたまらないでしょうし」
ふむ、しかし、だ。下半身麻酔は膀胱を眠らせると聞いた。両足は眠りから覚めたが、膀胱が半覚半睡の状態にあったらどうする? 尿はたまる。しかし半分眠ったままの膀胱に尿を押し出す力はない。そうなれば……。
やっぱり管は入れっぱなしの方がいいのか?
だが、このままでは眠れそうにない。朝まで尿意と闘い、トイレに走り込みたい己を押さえつけることになる。それも嫌だなあ……。
「そのう、管が入っているから尿意があるって本当ですかね?」
「私は、そうじゃないかなあとは思いますが、本当かといわれると……」
そうか、看護師さんにも分からないことなのか。であれば、私が決めるしかないじゃないか。
えーい、ままよ。この尿意と闘うより、管を抜き取るリスクを選んじゃえ! それで困ったことが起きたら、また看護師さんを呼べばいい。何かいい薬でも出してくれるだろう。
「はい、じゃあ抜きますよ」
「いや、そのちょっと待ってください。この管が差し込まれるときは麻酔が効いていて何にも感じなかったけど、いま麻酔はほぼとけています。管を抜くと痛いんじゃないですか?」
これは必死の問いかけである。私に限らず、痛みは嫌がられるものなのだ。
「痛みは生きている証拠だ」
と偉そうにいう人もいるが、痛みを感じる人が生きているのは、わざわざ痛みを感じなくても明らかなことではないか。
「でも、朝になったらどうせ抜くんですから」
いわれてみればその通りだ。いま痛むか、後数時間後に痛むか。それほどの違いはない。
「じゃあ、やってください」
しかし、である。あそこに入っている管を、まだ若い看護師さんが抜くのである。抜くとなれば片方を押さえなければならず、押さえるということは握るということで……。
2人がすでにそんな仲になっているのなら、それも嬉しかろう。しかし、この看護師さんとは入院して始めてあったのである。まだ、そんな仲になれるだけの時間はたっていない。
「あなたみたいに若くて、こんなことをやらなきゃいけないなんて、辛くない? それとも……」
と恥ずかしさを隠すための会話を仕掛けた途中、
「はい!」
と彼女はいい、管がスッと抜けた。痛みを感じる暇もない一瞬の出来事である。あれは脅しだったのか? 俺はからかわれていたのか?
「じゃあ、これで様子を見て下さい」
そう言い残すと、彼女は病室を出て行った。そんな仲になる時間を私に与えない早業である。
いずれにしても、彼女の話通りならこれで尿意は治まるはずである。尿意から解放されて眠れるはずである。
だが、私はなかなか眠りにつくことができなかった。しつこい尿意が一向に消え去ってくれなかったのである。
こんなに長い文章になるとは思ってもみませんでした。このまま書き続けるとキリがないので、この先は再び次回とします。