2023
05.23

私と朝日新聞 記者以前の5 大学受験に失敗

らかす日誌

失敗した。現役での大学受験に失敗した。

1968年3月、私はとある国立大学を受験した。高校の担任からは

「お前、いまの成績では志望校は無理だと思うぞ」

と何度か忠告を受けた。しかし、私はあくまでノーテンキらしい。

「先生、入試日までの日数を計算しながら勉強してるんで、いまは理科、社会が遅れているだけ。大丈夫ですよ」

と自信を閃かせていたのである。それなのに、落ちた。あれまあ。

その大学の入学試験は1次と2次に分かれていた。1次試験はいわば足切りのために試験である。これをクリアしなければ本番である2次試験を受けることは出来ない。

私は難なく(と思うが……)1次試験にパスした。

「そうだろう? 行けるって。俺はこの大学に入るって」

自信はますます強まった。

それなのに、である。
あれは2次試験の確か2日目だった。朝、下痢をした。いま思えば不吉な1日の始まりである。が、当時の私はそうは受け取らなかった。下痢も1回限りで、その後は何ともない。うん、行ける!

午前中が、確か数学の試験だった。高校2年の夏休みに「チャート式数1」を完全にやり終えた後、どちらかというと数学は得意科目になっていた。よっしゃ、好きな数学だ。これで決めてやる!

問題と解答用紙が配られた。

「始め」

の合図で試験問題を表返す。問題は5問。試験時間は2時間である。
第1問から解き始めた。途中でつっかえて第2問に移り、さらに第3問、4問、5問と手をつけた。1つも答に行き着いた問題はなかった。なーに、これからが勝負なんだよ。2問、いや3問は正解してやる。さて、時間はどれくらい残っているか?
腕時計を見た。

「えっ、もう70分たっている! 残りは50分しかないのか……」

その瞬間である。頭が真っ白になった。何だか足がフワフワする。俺は本当にここにいるのか?
私は焦ったのである。50分しかない。たった50分でこの難問を片付け、合格ラインに滑り込めるだけの点数が取れるか?

支えきれないほどのプレッシャーを感じながら何とか2題だけは答にたどり着いた。ま、途中まで解き進んだものにも部分点が出るはずだから……。そんなことを考えながら試験会場を出た。
それは分析というより願いであった。

3日間にわたる2次試験を総て終えて教室を出ると、いくつもの予備校が解答を配っていた。あえなく合格最低点に達しなかった受験生を自分の予備校に誘い込もうというのだろう。
誘い込まれるつもりはない私も、ひったくるように1部を手にした。真っ先に見たのは数学である。見て、再び血の気が引く思いがした。なんとかたどり着いた2題も、この予備校が示した答とは違っていたのである。

「えっ、俺、ひょっとして、数学は0点?」

大学から試験結果を電報で知らせてきた(いや、あれは業者に頼んだのだったか?)のは、それから1週間か10日の後だったと思う。ドキドキしながら封を切った。

「サクラハナチル」

私は現役での受験に失敗した。その後しばらく、同居していた祖母が人に会うたびに

「電報にサクラハナチルと書いてありましたもん」

としゃべっていた。おいおい、俺の傷に塩を擦り込むつもりか? そんなことを話の種にしなくたっていいだろ!

一浪。これを「ひとなみ」とも読む。大学に行かねば、国立大学に進まなければ私に将来はない、と思っていた私は、浪人生活に入らざるを得なかった。

それでも、である。現役でこの大学に入っていたら、私が朝日新聞に入ることはありえなかった。翌年入った福岡の大学でのあるできごとが私の進路を弁護士から新聞記者に変えたからである。現役で受験した大学では絶対に起きえないことが起きたのだ。

詳しいきさつ(なんだかNHKニュースの常套句のようであまり使いたくない単語なのだが……)は後に触れることになるが、こここでは将来を開くのは成功だけではなく、失敗が開く未来もある、という人生の不思議さを記すに止めたい。

ふむ、俺、現役であの大学に入っていたら、今頃何をしていただろう?