2023
05.24

私と朝日新聞 記者以前の6 学生運動

らかす日誌

私は塾や予備校に通ったことがない。我が家の家計がそれを許さなかった。それに、塾に行かなくても別に通用は感じなかった。だって、受験勉強って、自分でやるしかない物だろ?

話は逸れるが、朝日新聞の先輩に、一浪で投打に入ったという人がいた。彼曰く、

「浪人したんで予備校に行ったんだわ。そしたらなあ、教え方が実に的を得ていて分かりやすく、『現役の時にこの予備校に通っていたら、俺は東大に現役では入れたはずだ』と悔やんだよ」

その先輩がつい先日亡くなったらしい。ご冥福を祈る。

話を元に戻す。
やむなく陥った一浪という1年間、私は出身高校が開いていた教室に通った。昨日まで教えてくれていた先生が、今度は浪人生の私たちを相手に授業をするのである。
考えてみれば、

「それって公務員がやるじゃない?」

ともいえるが、私立の塾より遙かに費用が安かったから、私の頭の中では塾の範疇には入っていない。そして、先生方は昨日までと同じ教え方をするのだから、

「こんな教え方をされたら、現役で東大に入れる!」

という世界とは全く無縁である。

それでも通ったのは、昨日までの同級生が

「おう、お前も落ちたんか」

と言い合いながら顔を合わせる場であったからだ。いってみれば負け犬の集まりである。何となく心が安らいだ。

そして1年近く。昭和44年が明けた1月末のことである。
私が志望していた大学に現役で合格していた先輩が帰郷し、私を喫茶店に誘った。常々尊敬していた先輩なので、喜んで出かけた。
テーブルを中にして座ると、先輩は突然頭を下げた。

「大道君、ごめん。俺たちのせいで入試がなくなった」

燃えさかる学生運動の煽りで、私の志望校はこの年の入試を取りやめた。唖然としたが、まあ、私にでる事は何もない。現実は現実として受け入れるしかない。だから私はすでに地元の国立大学に志望校を変更していた。

この先輩はご多分に漏れず、新左翼運動に参加していた。当時の私も心情新左翼である。機動隊を導入する大学当局に怒りを燃やし、放水にも催涙弾にもひるまずに突き進むヘルメット部隊に胸を熱くしていた。

「いや、別に先輩の責任じゃなかですよ。仕方んなかとです」

こうしてその年、私は福岡の国立大学法学部に進んだ。

学生運動が燃えさかったのは東京の大学だけではない。私が入った福岡の大学でも、入学式に青いヘルメットをかぶった反帝学評の連中が20〜30人なだれ込んだ。口々に

「入学式粉砕!」

と叫びながら演壇から教授連を排除して占拠し、アジ演説を始めた。

「なるほど、これが学生運動というものか」

何故入学式を粉砕しなければならないのか、私にはよく分からなかったが、いま私は激動の時代に触れているという思いが湧いてきた。

しかし、私のような感性を持つヤツは少数派だったらしい。やがて新入生の間から

「帰れ! 帰れ!」

という声が起き始め、やがて大合唱になった。今日は俺たちの晴れの日である。俺たちの入学式を汚すな。そんな思いを抱いた普通の新入生が多かったらしい。

だが、私は合唱に加わらなかった。演壇からマイクでがなり立てている彼らの話を聞きたかった。いったい何故、入学式を粉砕しなければならないのか。彼らは何と闘って、何を勝ち取ろうとしているのか。それを聞かずに追い出してどうする? 入学式なんて儀式はどうだっていいじゃないか。時代と添い寝するために優先すべきはどちらなんだ?

混乱の入学式を終えて2週間ほどすると、私の大学は全学バリケードストライキに入った。折角大学生になったのに、授業なんてない。毎日学校に通ってやったのは「クラ討」と呼ばれていた、クラス単位での討論会である。1970年の安保条約改定期が迫っていた。ベトナムでの戦争も激しさを増していた。アメリカ帝国主義をどぎゃんかせんといかんやろ? 討論は学内問題、学生運動から、安保改定問題、ベトナムまで広がった。

こうして、私の大学生活は学生運動に迎えられたのである。

不思議な時代だった。日本で学生が権威に、権力にたてついたのと同じ時、アメリカでもフランスでも学生が叛乱していた。いまのようなインターネットなどない時代である。示し合わせて立ち上がったわけではないだろう。学生たちは同時に、自然発生的に既存の権威、権力を打倒しようとした。地球規模で起きた学生の叛乱。恐らく、歴史の歯車の1つがカチリと音を立てた時代だったはずである。
あのころ、世界史にいったい何が起きたのか。いまだに納得できる説を読んだり聞いたりした記憶はない。私の青春と重なるあの時代、いったい何だったのだろう?

そんな時代である。私もヘルメットをかぶり、タオルでマスクをして街頭デモに出た。反安保の集会にも参加した。ご多分に漏れず、デモをサンドイッチ規制する機動隊に蹴られ、殴られたこともある。学生運動と呼ばれる渦のどこかに、私はいた。

だが、1つだけできないことがあった。暴力である。私は舗道の敷石を機動隊に投げたことはないし、ゲバ棒を握ったこともない。ましてや、ゲバ棒を振りかぶって誰かに襲いかかるなどは夢にも考えたことはなかった。

闘争が高揚すると、教室で下宿で暴力革命が論じられるようになった。革命をもたらすのは最終的には武力しかない。我々はまずゲバ棒を持った。鉄パイプもある。国家権力は我々を鎮圧するに足る国家暴力で制圧にかかる。制圧されまいとすれば、さらにこちらの武器を強化せねばならない。だが、日本刀を持てば権力は倍する日本刀を持ち出すだろう。拳銃を持てば機関銃を使うに違いない。しかし、この武力の相互エスカレートという苦しい時期を乗り越えなければ革命派成し遂げられないのだ……。

理屈ではそんな話についていった私だったが、感情は段々冷えていった。いや、勝ち負けの話ではない。私は暴力が嫌なのだ。自分が傷ついたり殺されたりすることが身震いするほど怖い。であれば、相手も同じだろう。傷つき、死に至ることを心底恐れる相手に向かって私はゲバ棒を振り下ろせるか? 引き金を引けるか?
絶対に引けないのである。私は臆病者なのである。相手の痛みも想像できる臆病者なのである。

高校の同級生が、何と鉈を振りかざしてとある集会に殴り込んでいる現場を目撃した(彼は大学を出ると、三菱系の大企業に就職した。あいつにとって鉈を持って集会に殴り込むことと、大企業に職を求めることの間に、何も矛盾はなかったのか?)。校舎の1つが民青(日本民主青年同盟)に封鎖されたと聞いて友人と見に行ったら、その校舎からゲバ棒を持って走り出してきてきた男に追いかけられた。そんな体験はたくさんあった。
それでも私は臆病者のままだった。

臆病者でも、社会を変えたいという思いはある。ベトナム戦争を止め、日米安保条約を破棄し、大学管理法案を粉砕する。目標はいくつもあった。そんな改革を進め、出来ることなら能力に応じて働き、必要に応じて消費する社会を築きたいという願いは相変わらず持ち続けた。卑怯者にも何か出来ることはあるんじゃないか?

私はベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)に身を投じた。デモに参加するのもベ平連として出た。街頭フォーク運動にも参加した。毎週1回、福岡・天神で下手な(下手、は私だけ)ギターをかき鳴らして反戦フォークを歌う。面白いもので、中にはカンパしてくれる市民もいた。

そうそう、そんな私に学費援助を持ちかけて頂いた人がいた。

『娘から聞いたんだけど、あなたはお金がなくて苦労しているそうですね。幾分かの援助をさせてもらえないかと思ってね」

彼女の娘とはベ平連で知り合った。ん? 金に困っている私を援助してくれるって?
実にありがたい話ではある。だが、困るのは娘がからんでいることだ。どうやら、彼女は私に好意を少しはみ出した思いを抱いているらしい。悪い子ではないが、私の好みではない。この援助を受け入れれば、俺はあの娘と……。

『ありがとうございます。でも、何とか自力でやっていきます。そうじゃないと自分じゃなくなりますから」

大人の女性に私を認めていただいた。私の学生生活を飾るエピソードの1つではある。

いや、長々と学生運動の話を書いてしまった。だが、私と朝日新聞を語るには、どうしても書かざるを得なかった。
何も、左翼の新聞だと言わてきた朝日新聞に入る資格を新左翼運動に身を投じて得た、というのではない。ベ平連の活動を始めたことからあることが起き、私に

「新聞記者になろう!」

という思いを抱かせたのである。それは後に詳述することになるが、ここではのっけから学生運動の渦中に入ることになった私が、色々と考えた末、福岡ベ平連に入った(といっても、ベ平連は組織ではなく運動なので、登録など必要なかった。顔を出せば参加だし、出し続ければメンバーで、来なくなれば「どうしたのかね、彼(彼女)」といいだえkのものである)ということを頭のどこかにご記憶いただければ、話が次につながる。

そうそう、今日泌尿器科に行ってきた。4周前に採った血液にお分析結果が出た。PSA値3.569である。正常値が4.000以下なので、私は正常範囲に入った。
今日も採血されたが、今日採られた血に入っているPSAはもっと下がっているはずである。秋に重粒子線で叩くことになっている前立腺のがんは、いまどうなっているんだろう?