2023
08.30

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の26 加藤さんの話

らかす日誌

名古屋を離れる前に、どうしても触れておきたい人がいる。スーパー、ユニーの広報室長だった加藤さんである。もとは老舗百貨店、オリエンタル中村の専務取締役だった。が業績不振に陥って三越に買収された際に離職し、ユニーに入っていた。
専務を務めた人である。スーパーの広報室長は役不足だったろう。だが、暗い影は微塵も見せず、

「オリエンタル中村が三越に買われるかどうかっていうころね、私が部屋で新聞を読んでいると、『加藤専務はいらっしゃいますか?』って新聞記者が部屋に入ってきたのよ。あ、面倒だな、と思ったんで、新聞から目を離さず、『いませんよ』っていったら、『そうですか』って出て行っちゃった。取材する相手の顔も知らない記者さんがいるんだね」

など、ユーモアを忘れない人だった。

その加藤さんに、私は何故か可愛がられた。多分、決算発表の席で、ユニーの西川社長と

「西川さん、いいスーツを着ていますね。それはどこで?」

「ん? このスーツ? 銀座じゃなかったかなあ」

「ユニーもスーツを売っていますよね。ユニーで売っているスーツは着ないんですか?」

「いや、私は社長だよ。あんなものは……」

というやりとりをしたのがきっかけではなかったか。老舗百貨店を経営してきた加藤さんの言葉の端々には、西川社長への批判が滲んでいたからである。だから、

「面白い質問をする記者がいる」

とでも思っていただいたのだろう。自分を貫けば敵が出来る。しかし、味方も生まれる。中途半端では敵も味方もできないのが世の中である。

その加藤さんが

「大道さん、送別麻雀をやりましょうよ」

と声をかけてくれたのは、私の東京転勤が決まってあいさつに伺った1982年3月半ばのことだった。料亭に麻雀部屋をしつらえてくれ、加藤さん、私、加藤さんの部下、朝日の先輩記者の4人で雀卓を囲んだ。

親が2巡目に入ったころだった。私は何の気なしに「發」を切った。手元に1枚しかない「發」は使い道がないからである。

「あ、大道さん、それ、当たり」

加藤さんが声を出し、自分の牌を倒した。

「どうです、きれいな手でしょう」

見ると、「發」が3枚、その他はみな索子(ソウズ)である。

「ああ、きれいですね。發・混一色(ホンイツ)ね」

「何を言ってるんですか。違いますよ。良く見てよ」

「だって、發混一色でしょう」

「いやだなあ。大道さん、知らないの? ほら、みんな緑の牌でしょう。これはね、緑一色(リューイーソウ)といって、役満なんです。あー、大道さんから役満上がっちゃった!」

「えっ、役満? 俺、役満を振り込んじゃったの?」

その後、多少は挽回したようである。しかし役満を振り込んだ傷は大きく、締めてみると、私は加藤さんに1万5000円だったか2万円だったかをふんだくられてしまった。

「しかし加藤さん、酷いじゃない。今日は私の送別麻雀でしょ? それなのに私から役満をとるなんて」

「大道さん、これが送別麻雀ですよ。だって、あなたが私に緑一色を振り込んだから、雀牌を見るたびに、『名古屋で加藤に緑一色を振り込んだ!』って思い出すでしょ? 大道さんは私のことを絶対に忘れないでしょ?」

なるほど、送別麻雀とはそのようなものか。最近は麻雀とはすっかり縁が切れ、ルールもほとんど忘れたが、加藤さんのことはしっかりと記憶にある。あれから40年。あのころ50代だった加藤さんはお元気だろうか?

それから1週間ほどたっていたろうか。加藤さんに

「今度は家族ぐるみで送別会をやりましょうよ」

と誘われた。三河湾に浮かぶ島まで行くと、新鮮な魚が食べられるのだという。

「私もワイフを連れて行きます。大道さんもご家族みんなで生きましょうよ」

喜んでお受けした。当時、我が家は5人家族になっていた。長男は4つ目の幼稚園を卒業したばかり。長女は名古屋の幼稚園にちょうど1年通い終えたところである。そして、名古屋で次女が生まれていた。当時、1歳と9ヵ月。一番手のかかる年頃である。いずれにしても、まだ小学校にも行かない子どもが3人いるのは、喧噪と同居しているようなものである。ま、その分、楽しみも多いのだが。

当日、フォルクスワーゲン・ビートルの後部座席に3人のヤンチャ盛りを詰め込んだ。助手席には妻女殿。加藤さんは愛車トヨタ・マークⅡで奥様とのドライブである。

3人の子どもたちは新鮮な魚を楽しんだろうか。それとも、船に乗って島に渡り、広い座敷で走り回ったことの方が楽しかっただろうか。私は

「車だから酒が飲めないのが悔しいですねぇ」

といいながら、しっかり魚づくしに食らいついた。
心地よい時間を過ごした帰途のことだった。快調に走っていたビートルが、突然

ゴホゴホ

と咳き込み始めた。出力が落ちる。やがて走らなくなった。やむなく、道路脇に車を止めた。あれまあ、車が動かなくなった。動かない車は、単なる鉄のかたまりだもんな。何の役にも立ちやしない。どうしよう?
途方に暮れていると、先を走っていた加藤さんがUターンして戻ってきてくれた。

「大道さん、どうしました?」

「いやあ、エンジンが故障しちゃったようで」

「JAFに入ってますか?」

「いえ、入っていません」

「じゃあ、私のJAFを使いましょう」

レッカー車を呼んでくれ、

「どこまで牽引しますか?」

「家の近くにヤナセがあります。修理を頼まなければならないので、そこまでお願いします」

いやはや、加藤さんがいなかったらどうなったことやら。
と書きながら、ふと思い出した。JAFで車を牽引してもらえば、それなりの費用が発生するのではないか? それにしては、私はその費用を支払った記憶がない。ということは……。二重にも三重にも加藤さんに御世話になったのではなかったか?

それにしても、我が家族はどうやって自宅にたどり着いたのだろう? 加藤さんの車は5人乗り。子どもが小さかったから、後部席に5人を詰め込んで運んでいただいたのだったか?

翌日か翌々日、ヤナセから連絡が来た。

「ファンベルトが切れて、その破片をエンジンが吸い込んだんです。出来るだけ取り除いたんですが、エンジンの調子が回復しません。どうしますか?」

どうしますか、といわれても東京転勤は目の前だ。家族全員、車で移動することにしていたし、東京に行っても車は必需品だろう。

私はビートルが大好きだった。このあと、5年でも10年でも乗り続けたいと思っていた。しかし、今はほかに選択肢がない。車を買い換えることにした。といっても、数日後には東京まで走らなくてはならないのだから、新車では納車が間に合わないかも知れない。というのはきれい事で、実は新車を買う金がない。よし、ここは中古車だ。

「おたくには中古車もありましたよね。それを見せてください」

黄色いゴルフ1が目に着いた。エンジンはディーゼルである。燃費がいいらしい。

「おいくらです?」

「ビートルを引き取らせてもらって、150万円です」

おっと。中古でもそんなにするのか。手持ちのカネでは間に合わないぞ。妻女殿を通じ、妻女殿の親父さんから150万円借りた。朝日新聞記者の懐具合はその程度のものである。

数日後、私は思い出深い名古屋に別れを告げた。ゴルフに乗った我がファミリーは名古屋インターから東名高速に乗り、ディーゼルエンジンの音を響かせながら一路東京を目指した。