2023
12.20

私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の14 News That’s Fit to Print.がない時は

らかす日誌

All the News That’s Fit to Print.

これはニューヨークタイムズのモットーである。国際金融の取材でニューヨークを訪れた時、確か新聞輸送用のトラックに書いてあり、

「洒落たキャッチコピーだな」

と感心したことがある。
印刷するに相応しいあらゆるニュース。考えてみればそれが新聞の原点だ。しかし、では、News That’s Fit to Print.がない時はどうするのだろう?

名古屋で半年ほど、ほとんど記事を書かなかった時期がある。名古屋財界を担当した時である。
財界。いってみれば、地元有力企業で功成り名を遂げた人々の集まりである。男は金ができ、女もそれなりに楽しんでしまうと、残るのは名誉心だといわれる。手ひどい言い方をすれば、財界人とは、金はそこそこできた、女にはもう振り向いてもらえない、という年代の方々で、名誉心だけを支えに生をつないでいるおじいちゃんたちである。財界に籍を置く全員がそうではないことを祈る。
この方々を担当せよといわれても、日常的に記事にするニュースがあるわけではない。私は

「News That’s Fit to Print.がなければしょうがないじゃないか」

と平穏な日々を楽しんだのである。

さすがに、上司は苛立ったらしい。あるデスクが私を喫茶店に呼び出し、

「大道君、少しは記事を書いた方がいいと思うんだけど」

とやんわり私を諭した。まあ、それはそうなのだ。毎月お給料を頂いている以上、働くのは義務である。だが、書くことがなければどうすればいいのだ?

「いや、俺もそう思う。だけど、書かなきゃって思えることが全くなくてね。ほかの新聞も見てみてよ。どこかで俺が抜かれたこと、あった? ないでしょ。名古屋財界は今、全く平穏なんだよ。どうしようもない。何か書いた方がいいことがあったら教えてよ。取材して記事にするから」

「いや、俺にそう言われても……」

結局、話し合いは物別れに終わった。私は次に「News That’s Fit to Print.」が登場するまで筆を執ることはなかった。私は頑固なたちらしい。

記事は書かないが、取材は続けていた。名古屋の主立った企業のトップに話を聞くのである。

名古屋鉄道(地元では名鉄という)に、日本銀行から天下った副社長(専務だったかも)がいらっしゃった。どういう話の流れだったかははっきりしないが、こんな話をされた。

「私はね、日銀の名古屋支店長もやったんです。その時のご縁で今ここにいるのですが、支店長時代、目一杯地元の経済人とお付き合いをして、私はすっかり名古屋のインサイダーになれたと森でいました。そのころお付き合いしていただいた方々はみんな、私を気心の知れた仲間として心を開いてくれていました。いや、いま思えば、私の目にそう見えていただけで、あのころの私は、名古屋のインサイダーではなかったんです」

どういうことですか?

「名鉄に来てね、あれほど慣れ親しんでいたはずの名古屋経済界に、私が全く知らなかった世界があることを知らされたんです。名古屋には、よそ者には絶対に見せない顔があるんですね。支店長時代の私はよそ者としてしかつきあってもらっていなかったんですよ」

私も、そういう意味ではよそ者です。よそ者が見ることが出来ない顔って、どんなものなんですか?

「いやいや、あなた。私の口からはとても申し上げられません」

その名鉄の社長に会った時である。突然、こんな話を切り出された。

「私はね、学生時代はジャーナリストになりたかったんだ。ペン1本で世の中を渡っていく暮らしに憧れてね。ところが入社試験に落ちて、その結果が今、というわけです」

どこを受験したんですか?

「うん、入りたかったのは東洋経済新報社だった。経済ジャーナリストになりたかったんですよ。あなたはいいなあ、朝日新聞でペンを持てて」

「名古屋は議論をしないところなんです」

という話をしてくれたのは、東京勤務の経験がある東海銀行の幹部だったと思う。

「名古屋人は周りの人を2つに分けます。仲間か、仲間でないか、の2つです。で、相手が仲間ではないと、まともに話をしようとしない。だから議論は生まれません。じゃあ、仲間ならどうか。少し難しい話をしようとすると『そんな面倒なことはどうでもいいがね。ま、飲もう』ということになってこちらも議論はしないんです」

こんな話を聞いていて、さて、どんな新聞記事が書けるのいうのか?

取材はするが、記事は書かない。だから、昼間はそこそこ時間があった。財界担当の居場所は名古屋商工会議所内の記者クラブである。余った時間はそこで過ごすことが多かった。
そんなある日、書店で1冊の本を見つけた。「Back to the Future」のペーパーバックである。手に取ると、極めて分かりやすい英語だった。スクリーンでスピルバーグの世界に引きずり込まれていた私が見のがすはずはない。そして、何と映画がまだ公開されていない「Back to the Future Part2」のペーパーバックもあるではないか。私は2冊を買い求め、早速読み始めた。

映画のシーンが蘇る。こんな読書は楽しいものである、読書は「Part2」に進んだ。これも面白い。わくわくしながらページを繰るうちに、ふとあるアイデアが浮かんだ。

「Part2を翻訳して我が子どもたちに読ませてやろう!」

我が家はこぞって「Part2」の映画を待っていた。子どもたちだって、早く「Part2」のストーリーを知りたいはずだ。
その日から、時間を盗むように翻訳作業を進めた。しばらくすると「Part2」の日本公開日がアナウンスされた。いかん、まだ翻訳作業は3分の1も進んでいないぞ!
作業に拍車をかけた。映画が公開されれば、この作業は無駄になるのである。急がねば!

結論を急ごう。間に合わなかった。公開日まで出来た翻訳は3分の2ほどだったろうか。そして、さっそく映画を見てしまった子どもたちが私の翻訳に目を向けるはずはない。手元に、誰も読まない「「Back to the Future Part2」の途中までの翻訳文が残った。

それにしても、あの血道を上げるように取り組んだ翻訳文はどこに行ったのだろう? いまはもう、手元にないのである。惜しいことをした。あれがあれば、翻訳で飯を食えたかもしれないのに。
いや、あの英語は極めて易しかったからできたので、私程度の英語力で翻訳家になれるはずはないと思うが。