2006
09.17

2006年9月17日 革命家イエス

らかす日誌

宗教とは何か 下 マタイ福音書によせて(田川建三著、洋泉社MC新書)

を読んだ。心躍る読書だった。

最初の一文からぶっ飛んだ。

 — 貧しい者は幸い

 これは嘘だ。たとえどんなことがあっても、人間が貧乏だからといって、それで幸福だ、なんぞというわけはない。

これだけで、私の頭はパニくった。「貧しい者は幸い」というのは、どうやら「山上の垂訓」の一節らしい。だが、かすかに私の記憶に残っているその文章は、確か、「貧しい者」の前に形容詞がついていた。Webで調べてみた。協会のホームページでも「心の貧しい者は幸いです」とあった。そう、私の頭に残っているのも、確か、これだ。

「心の」が上につくと、なにやら厳かな、いかにも宗教的な、なんだか人間の本質を鋭く突いているような感じの文章になる。そこまではいいのだが、よくよく考えると意味不明な文章でもある。

そもそも我々は、心を豊かにしなさいと育てられたのではなかったか?
美しいものに親しみ、邪悪なものには目を背け、驕らず、怒らず、嫉まず、へつらわず、焦らず、いつもゆったりした心で過ごしなさい。あなたは充実した人生を送れます。

ところが山上の垂訓は、そんな暮らしをしては「幸い」になれない、とおっしゃる。じゃあ何かい、いつも汚いものを見て、邪悪に親しみ、驕り高ぶり、怒りまくり、他人を妬み続け、とにかく上司にゴマをすって、焦りまくっていれば幸せになれるってか? 確かに、ゴマをすればある程度は出世して、驕り高ぶるようになるだろうけど、キリスト教の信者ってみんなそんな人たちなのかい?

どうも、常識に反する。

だが、私の記憶でも、協会のホームページでも、山上の垂訓の一節は、「心の」がついた意味不明な文章なのである。

なのに、田川さんの文章には「心の」がない。貧しい者は幸い、というのはだと書いてある。

「そりゃあ、貧しい者は幸せじゃないよ。おっしゃるとおりです。でもね、田川さん、元の文章を勝手に変えて批判するのは、それ、ちとルール違反じゃないの? その程度の本を買っちまったのかなあ」

と後悔しながらも、

「本当に『貧しい者は幸い』なのか。『怒りは殺人と同じ』なのか。口当たりのいい『常識』に対する鋭い批判の書。改訂増補して復刊。本書を読まずして『マタイ』を語るな!」

という帯のキャッチコピーに惹かれて1575円も払ってしまっていた私は、やむなくページを進めた。
進めて、我が蒙を啓かれる思いがした。

田川さんは聖書学を研究する学者さんらしい。その研究によると、ルカ福音書などと読み比べると、「心の」(この本では「霊において」と翻訳されている)という言葉は、イエスの使徒の1人で福音記者の1人でもあったマタイ、あるいはマタイ学派が勝手に付け加えた
さらに、この原文は動詞がない。「幸い、貧しい者」とあるだけだから、

「貧しい者は幸いです」

とも、

「貧しい者こそ幸いです」

とも、

「貧しい者も幸いになるだろう」

とも、

「貧しい者こそ幸いになってほしい」

とも解釈できる。

こうした文献の比較研究や言語学的な研究から、田川さんは、オリジナルな文章を推定する。

 幸い、貧しい者。神の国はその人のものになる。
 幸い、飢える者。その人は満ち足りるようになる。
 幸い、泣く者。その人は笑うようになる。

 えーっ、これがイエスの言葉? これって、社会の底辺でしかいきられない人たちに向けた、革命の扇動ではないか! 貧しい者よ、飢える者よ、泣く者よ、立ち上がれ! 立ち上がって世界を自分の両手で掴むのだ! マルクスの思想とどこが違うっていうのよ?!

ここまでわずかに11ページ。たったこれだけですっかり田川ワールドの虜になった私は、むさぼるように232ページを読んでしまった。

革命家イエスが残した言葉、思想が、教団関係者の手で換骨奪胎されてきた。
生身のイエスなら、お友達になりたいと思った。そして、私は絶対にキリスト教者にはなれないことを再確認した。

新書のくせに、かなり高い本である。だから図書館で借り出していただいてもいい。是非ご一読いただきたい。