07.25
2008年7月25日 続シリーズ夏・その6 テーブルマナー
酷暑日が続く。このような季節は、エアコンの効いた場所でじっとしているに限る。動けば汗が出るだけだ。屋外の熱波に身をさらすなどは論外である。
なのに昨日は、何となく薄気味悪い秋葉原まで足を運んだ。目的地はF商会である。我が家の1面2層のDVD-Rが在庫切れ間近になったためだ。行きたくはないが、これだけはやっておかないと映画収拾が頓挫する。
しかし、ブルーレイレコーダー、やっぱり売れているんだなぁ。1面2層のDVD-R価格がまた下がり、TDK製が1枚200円を切っていた。この1ヶ月ほどで30円ほどの下落だ。ありがたい。思わず50枚買った。
ついでにブルーレイディスクも10枚購入。こちらは1枚500円弱で、値動きはない。ということは、生産があまり増えていないということか。私のようにAVCREC方式でDVD-Rにダビングしている人が多いんだな。ハイビジョンを楽しむにも、財布との相談は欠かせないもんな。
汗を拭き拭き会社に戻った。なのに、買った品物を昨日は会社に置き忘れた。暑さで頭が正常に働いていなかったらしい。
今日は忘れずに持ち帰ろう。
派米少年一行10人は、東京で初めて顔ををあわせた。中学2年生から高校3年生までと年齢差はあったが、みな新聞を配達する仲間である。うち解けるのにたいして時間はかからなかった。全員の心が、すでに太平洋を越えていたこともあったかも知れない。
早くアメリカの大地を踏みしめたい。だが、東京でこなさねばならない日程が残っていた。
その日我々は、都内のホテルに連れて行かれた。テーブルマナーの講習である。
それはそうであろう。いくら全国から厳選した10人とはいえ、選出対象は新聞配達少年である。豊かな家庭の子はいない。メシは腹に収めさえすれば用が足りる暮らしを続けているのだ。日々の食卓にマナーなど存在しない。ましてや、洋食のマナーなんぞ、あることすら知らない。まあ、山猿の集まりである。
そんなガキどもが、これから太平洋を飛び越え、親善大使となる。
「日本のガキどもは食事のマナーすら知らない。ふん、野蛮人どもめ。そんなレベルで、よくもアメリカに闘いを挑んだもんだ」
と蔑まれては、使命達成は覚束ない。ツアーを企画した新聞社のメンツも潰れる。このガキどもに、恥をかかない程度のテーブルマナーをたたき込む必要がある、と新聞社の幹部が考えても不思議はない。
テーブルについた。目の前に皿がある。その右にナイフ、左にはフォークが何本も並んでいる。皿の向こう側には、大小のスプーンがある。
「おいおい、ちょと待て! なんでこんなにたくさんのナイフ、フォーク、スプーンが必要なんだ? うちでクジラのステーキを食う時には、ナイフとフォークが1本ずつで用は足りるぞ。何か、こんなにいっぱいナイフもフォークも持ってますって、持ち物自慢をしてるのか?」
講師は30代後半の、どちらかというと女性的な男性だった。
(余談)
そういえば一昨日は、
「私、男女というか、女男というか、そんな子だった」
という女性も交えて酒を飲んだ。
スカートが嫌い、女の子が嫌いで、友達は男の子だけ。小学校4年生になって自分は女であることを知り。呆然としたそうだ。
ふーん、いろんな育ち方があるもんだ……。
女性的ではあったが、いや、女性的であったがために、かも知れないが、実に分かりやすくテーブルマナーを教えてくれた。
まずは、おびただしく並べられたナイフ、フォーク、スプーンの使い方である。
「ナイフもフォークもスプーンも、外側にあるものから使います。洋食では、1つの料理に1つのナイフ、フォーク、スプーンを使いますから、置かれているナイフ、フォーク、スプーンの数で、何品の料理が出てくるかが分かります。それに、先がギザギザになっているナイフは魚料理に使いますので、ま、料理の中身もある程度分かるわけです」
どんなものが出たって、俺はナイフ、フォーク、スプーン各1本ずつで食ってみせるのに。ホテルじゃ後始末の大変さなんて考えないのかね?
料理が何品出る、食材は肉か魚か、なんて分からない方がワクワク感があるんじゃないか? 何でそんなもの知りたいのかねえ。
西洋人とは、よくわからん人種である。
スープが出た。
「洋食では、音をたてることを嫌います。和食では、うどんや蕎麦は音をたててすすり込むのが粋な食べ方ですが、洋食にはそんなマナーはありません。スープも、音をたててすすってはいけません」
では、どうするのか。
スプーンを手前から向こうに動かしながらスープを掬う。そこまでは簡単だが、コツはこれからだ。
スプーンを口に突き刺すように真っ直ぐ口に運び、静かに口内に流し込む。スプーンを口と平行にするとすすり込むしかなくなる。これはタブーである。
言われた通りやってみた。ま、やって出来ないことはない。だが、静かにスープを流し込むって……。
西洋人とは、何と面倒くさいことをするものか! 音をたててすすった方が美味いぞ!
スープが残り少なくなったら、スープ皿の手前を左手で持ち上げ、向こう側にたまったスープを掬う。決して皿の向こう側を持ち上げては行けない。皿の底、つまり人目に触れるようには作ってないところがテーブルの反対側に座っている客に見えてしまうからである。
皿の底にブランドマークを入れているヤツもあるが、あれもやっぱり見せちゃダメなの?
料理が来た。
「ナイフとフォークは、外側のものから順に使います」
確かに皿の左右に置かれたナイフとフォークは、外側からの方が取りやすい。
「左手で持ったフォークで食べ物を抑えながら右手のナイフで切ります。切り離したら、フォークをそのまま口に運びますから、フォークは食べ物の左端の方に刺し、ちょうど口に入る大きさにナイフで切り分けるわけです」
最初にナイフとフォークで食べ物を細かく切り分け、あとはフォークだけで食べるというのはルール違反なのだそうだ。
どう考えても、最初に一口大に切り分けた方が食べやすいが……。
こうして講義は進んだ。食べている途中で水を飲んだりする場合は、ナイフとフォークはお皿にもたせかけるようにしてハの字に置く。ナイフとフォークを揃えて置くと、ウエイターが
「食事終了」
と判断して下げてしまうから、必ずハの字に置かねばならない。
本当に食べ終わったら、自分から見てナイフを奥に、フォークを手前にして2本を揃え、皿の上に置く。こうすれば、メッセージを読み取ったウエイターが下げてくれる。
水を飲む場合は、ナプキンで口の周りの油を拭き取ってからにする。グラスにベッタリと口の跡が残るのは食欲を減退させる。
「ところで皆さん、食事の途中であれ、食事が終わってからであれ、ナイフを置く時は、必ず刃を自分の方に向けてください。これには意味があるのですが、なぜだか分かりますか?」
舐めては困る。私は生まれて初めて、食事にマナーがあることを知って驚いている中学生である。そんなことが分かるぐらいならここに座っているはずがない。
他の9人も同じだった。誰も答えない。講師が口を開いた。
「これはね、『私はあなたに敵意は持っていません』ということなのですよ」
ん? ナイフの刃の向きと敵意に何の関係があるというのか?
「刃がテーブル向こうの人に向いているとしましょう。私は右手でナイフを掴んで一振りすれば、その人を傷つけることが出来ます。握り直す必要もないから、素早くやれます。いや、自分がそうやって斬りつけられるかも知れない。そんなだったらおちおち食事なんかしていられないでしょう」
テーブルマナーの奥深さに打たれた。そうか、ナイフの刃の向きが決まっているのは安全保障措置なのか。なるほどね。
以来、洋食を食べるたびに、店内の客のナイフの向きが気になる。これまで見たところ、6割~7割の客がナイフの背を自分に向け、刃を向こうに向けている。
おいおい、それって
「俺はあんたに殺意を抱いている」
というメッセーなんだぜ。
見知らぬ客にそういうことはないが、頭の中では
「あんた、マナーが分かってないね」
と優越感に浸っている私である。
「そうそう、これも申し上げておいた方がいいでしょう。食事中は、両手は必ずテーブルの上に出し、相手から見えるところに置いておくようにしてください」
これも分からん。
「アメリカって西部劇の国でしょう。当時の人はガンベルトをつけたまま食事をしたんですね。で、テーブルの向こうに座っている奴の手がテーブルの下に隠れていると、『こいつ、ガンベルトのピストルをいま俺に向けてるんじゃないか』となっちゃうんですね。両手はテーブルの上。これも覚えておいてください」
面白い。テーブルマナーって、メチャメチャ面白い。中学の授業の100倍は面白い。講師の話に聞き惚れているうちに食事が終わった。
「でもね」
お腹がくちくなった我々に、講師は話しかけた。
「マナーって形じゃないんです。心なんです」
と前置きした講師は、こんな話を始めた。
「イギリスの女王(だったと思う)がパーティを開きました。たくさんの貴族や領主が集まって食事をしたのですが、中にはマナーが分からない田舎者もいたようで、ある客がフィンガーボールの水を飲んじゃったんです。今日は出ませんでしたが、フィンガーボールっていうのは、指先を洗うための水を入れた者なんですね。エビとかカニとか、手を使って食べる料理の時に使います。汚れた指先をこれで洗うんですね。その水を飲んじゃった。女王様はどうしたと思います?」
我がパーティで何たることをするか、この無礼者! と怒鳴りつけるか?
それは飲む水ではありませんよ、とやさしく諭すか?
あーあ、田舎者が! とそっぽを向くか?
何事もなかったかのように見て見ぬふりをするか?
「ほかの客はみんな、『この田舎者め』ってな目をして、この客を睨んだんです。でも女王様は、自分もそばにあったフィンガーボールの水を飲んじゃったんですねぇ。女王様がフィンガーボールの水を飲んじゃった。慌てたのは、自分はマナーが分かっていると思っていた客たちです。女王様が飲んじゃった。これはいけない、ってんでみんなフィンガーボールの水を飲んじゃった」
女王が飲んだら皆飲んだ。阿諛追従とは世界の共通現象らしい。
「この女王様が、究極のマナーの体現者なのです。客の1人がフィンガーボールの水を飲んだ。放っておけば、彼は恥をかく。自分が開いたパーティにせっかく出てきたのに、恥をかいたまま返らなくてはならない。どうしたら彼は恥をかかずに済むか? 女王である自分も飲めばいい。とっさにそう考えたんですね。ねえ、相手の立場、人の立場を思いやって、嫌な思いをさせないように気を使う。これがマナーなんですよ」
こうして我々は、一夜のうちに小さなジェントルマンに変身した。
見知らぬ国、アメリカに旅立つ準備は完全に整ったのである。