2013
03.06

2013年3月6日 読書の功徳

らかす日誌

「あんた、何のためにそんなに本ばかり読んでんのよ!」

と、見目麗しく心映えのよい、若き我が愛人がベッドから怒声をあげれば、

「ごめん、あと1ページ読んだら切りがいいんだ。もう少し待ってて」

と言い訳しつつ、速読してベッドに飛び込むしかない。
そうではない方が、

「あんた、何のためにそんなに本ばかり読んでんの?」

と問いかけられれば、

「これ、一種の生活習慣病だから」

とわかったようなわからないような答えを返すしかない。
ホント、俺って、何でこんな日本を読むのかね。多分、暇つぶしだと思うが……。

しかし、時には、

「おっ!」

と声を上げながら、小さき我が目を精一杯見開くことがある。私の無知蒙昧を一つだけ克復した瞬間である。

選択」3月号に、そんな記事があった。

この雑誌、一切店頭販売せず、直販だけで公称6万部。そんな雑誌だから、恐らく図書館にも置いてない。現に桐生市の図書館にはない。仕方なく、年額1万2000円を払って6万人の1人になってちょうど1年。

「どうしてトヨタ自動車をそんなに嫌うのさ。それが読者に伝わるような記事では、トヨタ嫌いは増やせないぜ」

 「あんた、日本語下手やなあ。もう少しわかりやすく書いてくれよ」

 「それ、違うだろ。なんでそんな一方的な見方しかできないかね」

などとぶつくさ言いつつ、でも何となく読んでしまう雑誌である。
で、3月号のこの記事みたいなものに出会うと、

「ああ、1万2000円払っていてよかった」

と思う。
その記事は、医学博士柴田博さんが連載している

続 不養生のすすめ

というやつで、3月号は

「将来も生産人口は減らない」

という見出しである。

この回、

「高齢化社会をあつかう白書であれ、著書であれ、枕ことばのように登場するのが“高齢人口が増加して生産人口が減る”というキャッチフレーズである」

という一文から始まる。
確かに、高齢化社会を取り上げた文章は、このことを前提として警鐘を打ち鳴らす。そして、私の頭の中にもそのような図が描かれている。

「晩婚化? 草食男子? こら、若い連中、お前ら、いったい何をやっているのかね。もっと、ベッドで、布団で励まんかい。ボコボコ子供を生まんかい。このまんまじゃ、日本、没落する一方やで。俺たちの年金、不安だらけやないか」

そんな思いがある。

だが、柴田先生は、これは統計の扱い方の誤りだと見抜かれた。

「生産人口は、生産人口を二十~六十四歳にしようが、十五から六十四歳にしようが全人口の中の割合で見るかぎり、将来も激減することはないのである」

そして、この誤りの原因は、非生産人口の中に、0~14歳の人口を入れないことにあると指摘している。
何人が何人を支えるか。かつて4人の生産人口が1人の高齢者を支えたのに、将来は1人で1人を支えることになる、というが、支えられるのは年寄りだけではない

「高齢者一人あたりの医療費と同じくらいの費用が義務教育の一人あたり費用にかかっていることを忘れてはならない」

なるほど、年寄りが増えても、若い方がその分だけ減れば、社会の負担は同じである。
医療費は毎年1兆円増えるといわれる。そのうちのどの程度が高齢者の分かは不明だが、仮にに5000億円とすれば、少子化が進んでいることで毎年5000億円ほど必要な教育費が減っているではないか、というのだ。
財政問題としてやり玉に挙がる高齢者の医療費は、予算を縦割りで見るからそう見えるのであり、ほかで減っている、あるいは減らせるはずの部分があるのだから、高齢者医療の増え方だけ見て論じるのは、行政・予算の縦割り主義の弊害である、ということである。

最後はこう結ばれている。

「ここで強調しておくべきもっとも深刻なポイントは、人口学者も、政策学者も、生産人口不足は現在はおろか将来も起こりえないことを指摘しないことである。日本も欧米諸国も、中高年の失業率は低く、若年の失業率は平均を大きく上回っている。オランダに見られるようなワークシェアリングも功を奏さず、イギリスでも失業に不満の若者の暴動が起こっている。労働力不足のエビデンスなど何処にもなく、将来もないであろう。高齢社会の運営のために高齢者の生産能力を向上させる手立てはかなり成功している。もちろん、これは医学の進歩のせいなどに戯画化されるべきでなく、栄養学や体育学をふくむ全体的な健康医学の貢献によるものである。
 問題は、この豊かになった生産能力を社会の中で活用できないことである。政策のまずさなのか、生産体制の器の限界なのか、という本質的な議論が故意に回避されているような印象を受ける。労働力が不足するなどというお喋りは、本質的な問題の隠蔽を企てるためにする議論のように感じられる」

あ、今日は人様の文章に頼った日誌となった。
でも、私が蒙を啓かれたがごとく、皆様もことの真実に触れていただければと願う。

あ、

 「そんなこと、お前に言われなくても、ずっと前からわかっていた」

とおっしゃる篤学の方々には、この日誌にお付き合いいただき、無駄な時間を費やさせたことを、辞を低くして謝罪するしかない。

ま、そんな方々は、この日誌、初めからお読みになっているはずもない、とは思いますが。