2016
08.16

2016年8月16日 夕立

らかす日誌

TSUTAYAから送られてきたCDをリッピングしてflacファイルにし終えた。送り返すのに郵便局に行こうか、とサンダルをつっかけて外に出ようとしたら夕立だった。ポスティングは明朝にしよう。

さて、これだけの文章から皆様は何を読み取られるか?

「CDを送り返すって、いつもやってることじゃないか。日の本に新しきことなし。読み取ることなんて何もないわ」

チッチッ。甘い、文章の読み方が甘い。それでは現代国語のテストで満足な点数は取れませんぞ!

ポイントは

「サンダルをつっかけて」

にある。
まあ、TSUTAYAからは定期的にCDが送られてくる。だから定期的に送り返す。それはいつものことである。
だが、だ。腰をやられて以降の私にとって、郵便局までのたかが数百歩は、限りなく遠い道であった。途中でしゃがみ込まなければ歩き通せず、ために、目と鼻の先であるにもかかわらず、車で郵便局に乗り付け、降りて腰を曲げながらポストににじり寄って投函、また車で帰宅する、という暮らしを繰り返していた。

車を運転するのにサンダルは不可である。法で定めてあるかどうかは不確かだが、安全運転教習では、サンダル履きの運転は厳に禁じられた記憶がある。

そりゃあそうだ。サンダル履きで急ブレーキを踏む図を思い描いていただきたい。サンダルを履いた足で、足とブレーキペダルの角度を気にするいとまもなく強く踏み込んだらどうなるか。滑る。足がサンダルの上を滑る。急ブレーキを踏んだつもりが、足があらぬ方向に流れ、ブレーキペダルを強く踏みつけることができない恐れが強い。

であるにもかかわらず、スーパー、ショッピングセンター、どこでもよい。駐車場でしばらく眺めていていただきたい。サンダル履きで車から降り、サンダル履きのまま運転席に乗り込む不逞の輩が、男女を問わずいかに多いことか。あいつらは、自分が急ブレーキを踏むことはないと思っているのか? 急ブレーキを分でも足が滑ることはないと信じているのか?
私が警察官なら、少なくとも100個の手錠を用意して一斉逮捕に踏み切るところである。

いや、話が流れた。元に戻す。

本日、私はサンダルを突っかけて外に出ようとした。ということは、何のためらいもなく郵便局まで歩こうとしたということである。つまり、郵便局まで歩くことに不安を感じなくなったということである。
我が腰は、その程度には回復した。

という説明を読まずして

「大道さん、元気になってよかったね!」

と喜んでくれたあなたは文章の読み取り能力が極めて高い。例え東京大学の入試でも、現代国語だけは合格点をとられるに違いない。入試の合否は他の科目も含めた総合点で決まるから、あなたが合格するかどうかはわからないが。

そうなのである。腰が、何となく元に戻りつつあるのである。
このところ、ずっと引っ越しの下準備を続けている。もちろん、無理をして腰が再発したらことだから、作業は半日だけと決めている。残りの半日はひたすら安静にする。

それでも、だ。確かに、リリカはまだ服用しているが、ここ数日、鎮痛剤であるロキソニンは断っている。医師によると、リリカ、トラムセット、ロキソニンと並べると、ロキソニンがダントツに肝臓に悪さをするのだそうだ。だから、まずロキソニンをできるだけ断とうと思い立ち、いまのところ成功しているのである。
とはいえ、腰を抱えて、いや、自らの腰を抱えるのは無理だから、とにかく腰の痛みで動けなくなるのはいやだから、ロキソニンを携帯だけはしている。備えあれば憂いなしだが、備えが無駄になる日が長く続けばいいと願っている。

というわけで、このところ引っ越しの準備に追われる毎日である。
そして今日は、入れ歯の具合が悪くなった妻女殿を車に乗せて、次女の旦那が歯科医院を営んでいる相模原市まで往復した。
妻女殿が入れ歯の不具合を訴えられたのは日曜日だったと記憶する。

「いつでもいいから」

とおっしゃるのを、

「早いにこしたことはなかろう」

と急遽の相模原行きを促したのは私である。自慢することもないが、なにせ毎日が日曜日状態の私だ。それに腰の具合が、薄紙ではなく、画用紙、あるいは段ボール紙を剥ぐように快方に向かっていることもある。

ま、つまり、私の腰はその程度にはよくなった。ただ、歩いたり直立姿勢をとり続けたりすると、数分で腰が重くなる。うん、全快まではまだ距離があるということだ。こわごわ付き合っていくしかない。


が、である。
我等が日本、平和の極みにあるのか?
NHKのニュースも、朝日新聞のニュースも、トップはオリンピックだ。やれ、この競技で日本が金メダルを取った、メダルの数が何個になった。何度も言う。そんなもの、オリンピック精神に照らして、ニュースと呼べるのか?

中でもNHKはいただけない。夜7時のニュースはトップがオリンピック、ずっとオリンピックで、世の動きを伝えるのは最後の数分だけ。
おいおい、いつもは30分かけてやるニュースがたった5、6分で収容できるわけ? ということは、オリンピック期間中は殺人鬼も大泥棒も政治家も役人も企業もテロ組織も科学者も文化人も、みな開店休業なのか? みんなしてテレビにかじりついているのか? 俺、オリンピック競技、ほとんど見てないんだけど。

それとも、あれか? 本来ならたった5分で済むニュースを、いつもは延々30分に引き延ばしてるのか?


というわけで、知的な刺激に餓えたためか、とんでもない本に手を出した。

古事記」(池澤夏樹訳、河出書房新社)

である。

古事記といえば、

「吾(わ)が身は成り成りて、成り合はぬところ一處あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐命(いざなぎのみこと)詔(の)りたまひしく、『我が身は成り 成りて、成り餘れるところ一處あり。故(かれ)この吾が身の成り餘れる處を、汝が身の成り合はぬ處に刺し塞(ふた)ぎて、國土(くに)生み成さむと思ほす はいかに』とのりたまへば、伊耶那美命答へたまはく、『しか善けむ』とまをしたまひき」(以上、ウィキペディアの引き写し)

つまり、

俺さあ、身体から飛び出してるとこがあんだよね。
ああ、そうなの、私の身体は全部がつながってなくて、穴ぼこになっているところがあるのよ。
じゃあ、俺のポコチンをその穴ぼこに入れて国でも産んでみっか?
面白そうジャン。

程度のことしか知らぬ私が、何故に古事記か。

この本、新聞各紙の書評で高く評価されたのだ。加えて、そういえば俺、日本の成立神話である古事記なんか読んだことなかったよな、と精神的保守化が進む私が考えたこともある。
ということで、しばらく前にAmazonで中古本を買ってあった。

読んだ。読んで思うのは、が、まあ、である。おいおい、我々はこんなとんでもない方々の子孫なのか?

多くの碩学が、この本には様々なことをっしゃっている。が、無学な私にいわせれば

これ、ガキの妄想!

である。発想がガキの世界を出ていない。先に書いた国生みの話にしても、小学2年生程度の雑談に似てないか?

国生みの主役であるイザナキとイザナミは沢山の神様も産むのだが、イザナミは火の神である火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤオノカミ)も産む。産んだのが火の神だったから大変。おまんこに大やけどをしてしまい、伏せってしまった。伏せっても神を産むのはやめず、

イザナミのゲロから2神
ウンコから2神
オシッコから1神

が産まれてしまう。えーっ、ゲロにウンコにオシッコ! そんなところから神様が産まれてしまう?! ゲロの神、ウンコの神、オシッコの神! 俺たち日本人の神様って……。

子供って、幼稚園から小学生にかけて妙に下半身に関心を持つ。おちんちんといって喜び、ウンコ、シッコといって喜ぶ。恐らく性への目覚めの第一歩なのだが、我々の先祖がここに描き出しているのは、まるでその年代の精神世界である。 

「おい、子供ってそうやったらできるか知ってる?」 

「子供ってどこから産まれてくるか、お前、知らないだろう!」 

という年代が作り上げる世界である。 

かと思うと、近親相姦が登場する。天皇は妻がありながら、次々と女に惚れて子供を量産する(これだけは羨ましい!)。他人の領土を訳もなく奪い取る。権力の座に着くため、平然とライバルである兄弟を殺す。もう、何でもありの世界である。 

ははあ、我々が生まれ落ちたのはこのような国であったか。 

まあ、池沢さんの名訳があっても、決して読みやすい本ではない。読んで心躍る本でもなく、心温まることもなく、深く考えることを強いられる本でもない。だから、すべての人にお勧めはしない。 

だが、我々日本人はこの程度のところから歩み始めたのだ、と知るには必読の書ではある。よかれ悪しかれ、我々は日本人なのである。 
ま、個人的には、この、なんというか、緩さは、嫌いではないのだが。 

とりとめがなくなった。今日はこのあたりで。