02.24
2017年2月24日 教育
フリーダム・ライターズ
という映画を見た。そればかりか、後追いで本まで読んだ。今日はその話である。
特にこの映画を見たいと思って見たわけではない。
膨れあがる映画のストックを整理するため、とにかく映画を見ることを夜の週間として根付かせたのは1年ほど前だろうか。見た映画を、保存に値する映画と、それほどでもない映画に区分けするための作業である。
何しろ、ディスクを入れておくホルダーが2つの棚にいっぱいになった。これ以上ホルダーを増やしたら置き場所がない。そこで、保存に値する映画はホルダーに戻し、それほどでもないヤツは録画前のディスクが入っていたケースに戻す。こうして映画の保存に必要なスペース、ホルダーを減らすのが目的である。
この日は、「ふ」のホルダー(日本語タイトルが「ふ」で始まる映画)を前から順に見ていて、たまたまこの映画の番になったのである。
冒頭、とある学校での民族対立が描かれる。ブラック、ヒスパニック、アジア系、そして少数の白人。元は成績優秀な進学校だったらしいが学区割りが代わり、「最低」の子供が集まる問題校となった。
そこに、1人の新任女性教師が赴任してくるところから物語が始まる。
「何だ、ある教師の奮迅の活躍で問題校が復活するという学園ドラマか。まあ、金八先生の類だな」
私はリモコンの早送りボタンを押した。そう、いまやっているのは映画鑑賞ではない。不要な映画をはじく作業なのである。であれば、長々と上映時間に付き合うことはない。1.3倍速(ひょっとしたら1.5倍速?)で見て、まあ、人の動きはややチャップリンの短編映画風になる。台詞も速くなるが、どっちみち英語で理解するほどの語学力のない私のことである。字幕を見ていれば、
「保存に値する映画か否か」
程度の判断はできる。
この映画もお蔵入りする類の映画であろう。早送りボタンを押した時の判断はそうであった。アメリカ版金八先生に付き合わねばならない義理はない。
新任の女性教師は、最初の教室で速くも悪ゴロどものいじめに会う。あれまあ、若い女の子が可愛そうに。でも、ここからお説教して、人生を語って、悪ゴロたちが更生して行くんだろ?
ところがなのだ。この女性教師、めげない。粘り強く、この悪ゴロたちに本を読ませるのである。
親戚を全部集めても、高校を卒業したヤツなんかいない。俺だって、いつまでここにいるか分からないんだぜ。
親爺は働きもせず、母ちゃんが苦労して稼いだ金を力でかすめ取ってヤクを買いに出かけるんだ。俺もヤクを流して金を稼いだるンだけど、親爺には内緒さ。
もう3回も中絶しちゃったわ。最初はレイプされて。そのあとは違うけど、男って子供ができたって言うと、すぐに逃げていくんだよね。
銃をいじっていた友だちが、銃が暴発して目の前で死んじゃったんだ。
何いってんだ。殺された友だちの2人や3人、みんな持っていたよ。そんな町で生きてんだ。俺だって、明日まで生きていられるかどうか分からないんだぜ。
悪ゴロとは、そんな連中である。悪ゴロは、何故か分からないが民族でまとまる。まとまって、ほかの民族の連中と、暇があれば喧嘩出入りを繰り返す。
そんな連中に本を読ませる? 無理だろ、そんな。
いったいこの映画は何なんだ? 自作のデータベースをひいてみた。allcinemaからコピーして作ったものである。その解説を読んで驚いた。
「これ、実話!?」
早送りをやめた。普通の速度で再生する。ということは、腰を入れて鑑賞する態勢になったことを意味する。
無益な喧嘩出入りに明け暮れる悪ガキどもに、女性教師は次々に本を読ませる。図書館の本だけでは全員に同時に読ませることはできないので、彼女はホテルでアルバイトをして金を稼ぎ、自費で本を買って読ませるのだ。子供たちが生きている社会の最底辺を舞台にした本を事前に自分で読んで選び、子供たちに読むことを強制するのである。そうそう、「ロメオとジュリエット」もその1冊だ。あれも角突き合わせるヤクザ同志の世界に花開いた純愛物語なのである。
おそらく、それまではまとまった本など手に取ったこともない子供たちだ。最初はイヤイヤだったに違いない。だが、自分たちが生きているのと同じ環境で生きる人々を描いた本に、徐々に引き込まれていく。読書の喜びに、生まれて初めて目覚めていくのである。
その先に、「アンネの日記」があった。読んで怒りだす子がいた。
「何でアンネが死ななくちゃいけないのさ。それっておかしいだろ?!」
読書とは、文字を通じて、自分の脳内に1つの世界を描き出す作業である。映画や漫画は、見ればイメージが入ってくるから分かりやすい。だが、読書は想像力がなければなんのイメージもつかめず、ちんぷんかんぷんのままである。
辛く厳しい現実の中では想像力は身につきにくい。想像するより現実に対処することが迫られる。下手に想像などしていては生きてはいけないのである。この学校の子供たちは、想像の世界とは無縁に生きてきたのに違いない。
その子供たちが、想像力を育み始めた。想像力とは、許し難い現実を変革するための武器である。子供たちはいま、武器を手にし始めたのである。
女性教師は、アンネを最後までかくまったオランダの女性、ミープ・ヒースへの手紙を子供たちに書かせ、郵送した。それから間もなく、日記の出版50周年の記念イベントで、ミープ・ヒースがカリフォルニアにやってくることになった。そして、何と、彼らの学校を訪れてくれたのである。
生徒の1人が立ち上がり、言った。
「あなたは僕たちのヒーローです。自分でもそう思いますか?」
ミープは答えた。
「いいえ。あなた方こそ、真のヒーローです」
子供たちは1人残らず、高校を卒業する。それだけでなく、ほとんどの子供たちが大学に進学した。親せきをすべて集めても、高校の卒業生がいなかった子供たちが変わり、成長し、学んで立派に巣立っていったのである。
いや、これ、凄い話だとは思いませんか? 正直言って、映画の出来は今ひとつ。何となくまとまりがなく、エピソードの列挙に終始している、と酷評することもできます。でも、元になった話の素晴らしさ! それだけで100点満点を差し上げることを決め、この映画は再びホルダーに戻って保存対象になったのであります。
で、実はこの映画、私に買い物を促した。そこまで感動したのなら原作を読まずしてどうする! という次第で、いつものようにamazonで探した。出てきたのだが、すでに絶版になっているらしく、中古しかない。が、これで充分である。
一風変わった本であった。誰かがノンフィクションとして書いたのではなく、生徒たちの日記を重ね合わせてできているのだ。どうやら女性教師は、生徒に日記を書くことも強いていたらしい。その日記をランダムに抜き出し、それを編集して一連の出来事が分かるようにしてある。
最初の日記の書き出しはこうだ。
国語教師のグルーウェルって、あたしたちの世界の人間じゃないって感じ。なんで教師なんかになったんだろう? あんなやつにこのクラスを持たせるなんて校長もどうかしている。引き受けるほうも引き受けるほうだよ。やっかいなクラスを4つも、どうやって教えていくっていうの? 読み書きもまともにできないと思われているあたしたちを。
きっとあの先生、新車に乗って、3階建ての家に住んで、靴なんか500足ぐらい持っているんだろうね。廊下のあっちのクラスのほうが似合っているよ。ほかの人種より上だと思っている、出来のいい白人クラスのほうがさ。「わたしはやさしくてみんなのことを大事に思っているのよ」って顔で教室に入ってきたけど、どうせすぐ、いままでの先公と同じ態度になるに決まってる。最悪なのは、どうやら彼女があたしたちを変えられると思っているらしいってこと。“場違いな白人の若い女教師”がたった1人で、貧民街(スラム)の“落ちこぼれ確実な連中”を変えようていうんだから。
いい映画であり、いい本であることは保証します。ま、私が保証したところで何の意味もないだろうけど。
とにかく、見て、読んでいただきたいと御願いします。
そうそう、レイプや中絶の話が出て来るので、小学6年生にはまだ早いかなとも迷ったが、四日市の啓樹には1冊送った。4月からは中学生。そろそろこのような世界に接したほうがよいと判断した。読んだ上での感想を聞くつもりである。
横浜の瑛汰には2年後に読ませる予定でいる。