09.01
#70 俺たちに明日はない ― いまを先取りした映画 (2006年10月12日)
「あんたは大器晩成型ち言われたつよ」
叔母にそんなことを言われたのは、もうずいぶん昔のことだ。何でも、私が生まれて間もなくのころ、私の運勢を占い師に見てもらったのだそうだ。
大器晩成?
「若かうちは苦労ばするばってん、年ばとると成功する、っちいうこったい」
そうか、私は若いうちは苦労をする運命のもとに生まれたのか。なるほど、我が家の暮らしは貧困の極みにある。ということは、ご託宣は当たりだ。いまが当たって将来がはずれることはなかろう。ふむ、早く年を取りたい。
子供時代の私は、叔母の言葉を素直に受け取った。
アルバイト収入だけで暮らしていた大学生時代。我が下宿にやってきた友人が手相を見てやろうという。赤と白でモヒカン風に塗り分けたヘルメットを好んで身につける男だった。
「手相? そんなもん、あてになるのかね?」
私も、その程度の常識は備えるまでになっていた。未来のことなんか分かる訳ないじゃないか。
「いや、ほかの占いはみんなインチキだけど、手相、骨相は科学だぜ。気がつかないかなあ、人の顔も手相も、日々変わっていることに。つまり、その人の歴史さ。東洋4000年の歴史は様々な手相や骨相を見、その人がどうなったかを統計学的に処理して手相学、骨相学を生んだ。つまり、手相や骨相で未来もある程度わかるんだ。まあ、いいから見せてみろよ」
私は再びご託宣を受ける立場に立った。
「わかった。大道、君は何かの専門家になるというより、様々なものを集大成して成功するジェネラリストだな。若いうちはいろいろなことに首をつっこむがあまりうまくいかない。しかし、ある年代からそれまでに貯えた知識、経験が君の中で発酵して成功する。そういうタイプだよ」
叔母の言葉がよみがえった。
いずれにしても私は、若いうちはだめらしい。うまくいくとしても、晩年か。大器晩成型、ね。
そしていま、私の年齢は、「晩」と表現されても反論できない域に達した。なのに、「大器」とも「成」とも無縁の暮らしが続く。何故?
ハタと思い当たった。
叔母から金を取って私の未来を予言した占い師は、恐らくもうこの世にいない。子供の未来を聞かれて、今の暮らし向きを聞き、恵まれた環境にいないことを知れば、大器晩成と答えておくのが無難である。子供の現状をよく表しているうえに、子供が「晩」に達したとき、自分はもうこの世にいない。予言がはずれても、知ったこっちゃない。
なかなか考え抜かれた商売である。
学生時代の友人は?
単に、お前は専門分野で頭角を現すには頭が悪すぎると言っただけではないか? それとも、私と長くつきあう気はなかったのか?
その後彼は自分の信念に従って大学をやめ、港湾労働者になった。革命の主体はプロレタリアート。最も搾取される者が、最大の革命エネルギーを内に持つ。俺は革命戦士になる。日本に革命を起こす。
未だに革命は起きない。彼は私の未来を外しただけでなく、自分の未来も外した……。
「俺たちに明日はない」は、予言を試みた映画ではない。ベトナム戦争で荒廃した米国社会に芽吹きつつあった新しい時代の感性をすくい取った映画である。だが、土から顔を出したばかりの芽をクローズアップしてとらえたが故に、やがてやって来る世の中を予言する映画となった。私の目には、40年前に作られた「俺たちに明日はない」の世界が、21世紀のいま、私が目にしている現実と二重写しに見える。
著名な映画である。おおかたの読者は1度や2度はご覧になったことがあるはずだ。が、まあ念のため、ざっと粗筋を追う。
ボニーとクライドを引き合わせたのは、クライドのケチな盗み未遂だった。強盗をやって2年間ぶち込まれていたクライドが、ボニーの母親の車を盗もうとした。そこをボニーが見とがめた。
ボニーはしがないウエイトレスだ。皿運びを繰り返す日常が面白いはずはない。つかみ所のない倦怠感と向き合う毎日である。
クライドを見た時も、勤めに出る時間を前に、全裸の自分を鏡に映したり、ベッドに横たわったりしてけだるい時を過ごしていた。音に気付いて窓辺に走りクライドに声をかけたときも全裸だった。ひょっとしたらクライドは、窓のガラス越しに私の下半身、アンダーヘアを見たかもしれない。ま、それもいっか。
ハンサムな男だ。一目で体が熱くなった。服を着て外に飛び出した。
強盗で食らい込み、出所したばかりだという。強盗? 荒々しい犯罪の臭いが、なぜかボニーの体をさらに熱くした。それにこの男、頼みもしないのに、勤めに出る私に付いてくる。あんた、私に気があるの?
気分をよくしたボニーはからかうつもりで言ってみた。あんた、けちな自動車泥棒じゃない。強盗やったなんて嘘でしょ?
古今東西、男は女の挑発に弱い。クラウドも例外ではなかった。服の下からリボルバーを抜き出すと、通りの向こう側にあった食料雑貨店にズカズカと入り込み、金を奪って出てくるではないか。ついでに、駐車中の車も奪った。すごい! 興奮したボニーもこの車に飛び乗った。2人は拳銃をぶっ放しながら逃げ去った。
Bonnie: | Hey, what’s your name anyhow? (ところで、あんた、名前は何ていうの?) |
Clyde: | Clyde Barrow. (クライド・バローってんだ) |
Bonnie: | Hi, I’m Bonnie Parker. Pleased to meet ya. (私、ボニー・パーカー。あんたに会えて嬉しいわ) |
2人が自己紹介しあったのは、逃げる車の中だった。こうして、ボニーとクライドの強盗と逃走の旅が始まった。
2人に、まず自動車修理工のC・W・モスが加わる。さらに、刑務所を脱獄したクライドの兄、バックと、その妻ブランチも仲間になった。
5人は、盗んでは逃げ、逃げては盗んだ。しばしの休息を求めて借りた家を警察官に包囲され、激しい銃撃戦をしながら脱出したこともある。
暮らしに必要だから盗む。刺激を求めて盗む。楽しいから盗む。新聞は大きなスペースを割いて5人の犯罪を報道する。見ろ、俺たち有名人だぜ。みんなが俺たちを知っている。俺たちに注目する。行ったことすらない町の強盗まで俺たちのせいになってるけど、まあいい。有名ってのは楽しいものじゃないか。
すべてが順調だった。
1930年代の初め、米国社会が未曾有の不況に苦しみ、多くが職と食料を求めてさまよった時代である。米国社会の最下層から登場し、持てる者から盗み、警察権力を翻弄するボニーとクライドは、いつしかヒーローになった。
だが、警察の包囲網が徐々に5人を追いつめる。5人はその日、アイオワ州プラット市のモーテルにいた。夜、腹を空かしてフライドチキンを買いに出たC・Wとブランチを保安官が見とがめた。C・Wのジャケットの下にあった拳銃が目についたのだ。
警官隊がモーテルを急襲する。マシンガンや手榴弾まで使った激しい戦闘をしながら何とか逃げ切った5人だったが、翌朝、休息していた広場で目覚めると、警官隊に包囲網の中にいた。銃撃戦が再開した。バックが死に、ブランチが逮捕される。左腕に被弾したクライド、右腕に弾を受けたボニー、そして奇跡的に無傷だったC・Wの3人は、命からがら車を盗み、C・Wの実家に逃げ込んだ。C・Wの父は初対面の2人を、まずは暖かく受け入れた。傷を癒すボニーとクライドの2人は、そこが2人の墓場になるとは想像もしなかった……。
狂犬のようにアメリカ社会を荒らし回った実在の犯罪者を主役に据えたこの映画には、見逃せない特徴がある。ボニーとクライドに、現実感がない。現実に生きている人間の香りが希薄である。
2人の出会いからして現実のこととは思えない。
ボニーの母の車を盗もうとしていたクライドに、2階の窓からボニーが声をかける。
“Hey boy, what are you doing with my mamma’s car? ”
(あんた、母ちゃんの車に何してんのよ?)
この時ボニーは全裸である。さらに、ボニーは
“Wait there! ”
(そこにいなさいよ!)
と叫ぶと、一目散に、クライドのところに駆け下りる。
相手は恋人でも知り合いでもない。母の車を盗もうとした男だ。敵意、嫌悪感を抱くのが普通である。ま、確かに一目惚れというのはある。それにしても、我が家の自動車を盗もうとした男に一目惚れするか?
Clyde: | What kind of work do ya do? (あんた、仕事は?) |
Bonnie: | None of your business. (あんたには関係ないわ) |
Clyde: | I’ll bet you’re a movie star? A lady mechanic? (そうだな、映画俳優か? それとも女性技師?) |
Bonnie: | No. (違うわ) |
Clyde: | A maid? (お手伝い?) |
Bonnie: | What do you think I am? (私をなんだと思ってるのよ?) |
Clyde: | A waitress. (ウエイトレスだ) |
Bonnie: | What line of work are you in, when you’re not stealin’ cars? (あんた、自動車泥棒をやってない時はどんな仕事してんのよ?) |
Clyde: | Well, I’ll tell ya, uh, I’m lookin’ for suitable employment right at the moment. (うーん、そうだな、いい仕事を探してるってとこかな) |
Bonnie: | Yeah, but what did ya do before? (あら、そう。でも、これまで何やってたの?) |
Clyde: | I was, uh, I was in State Prison. (あー、実は州刑務所にいたんだ) |
Bonnie: | State Prison! (州刑務所だって!) |
Clyde: | Uh-huh. (まあ、その) |
Bonnie: | Well, I guess, uh, some littl’ ol’ lady wasn’t so nice. (年上の女にだまされたとか) |
Clyde: | It was armed robbery. (強盗なんだ) |
Bonnie: | My, my. The things that turn up in the street these days. (あれまあ。世間が物騒な訳ね) |
クライドと、勤め向かうボニーの会話である。適当な、いい女がいた。口説いてやれという男と、男の熱い視線にプライドと欲情をくすぐられる女の会話、なのだが、中身が凄まじい。
初対面の、しかもこれから口説こうという女に、あっけらかんと罪の履歴を明かす男。そんなことを聞いたら、すべての女が腰を引くと思うのだが、ボニーは驚いた風もなく、女にだまされたの? と返す。
犯罪者が寄り集まり、犯罪者を再生産する地域なら別だが、普通の社会でこんな会話にお目にかかるか? それとも、悪の臭いは女を酔わせる何物かがあるのか?
だとしたら、私も悪を実践しなければ。
こうして知り合った2人は、あっけらかんと盗む。
汝、盗むなかれ、というモーゼの十戒を引き合いに出すつもりはない。だが、他人の所有物を我がものとする行為は、どこか心の痛むものである。なのに、2人には心の痛みはまったくない。
食品雑貨店に押し入った。店員の1人がなたでクライドに殴りかかる。命からがら逃げ出したクライドはいう。
“He tried to kill me. Why’d he try to kill me? I didn’t want to hurt him.”
(ヤツは俺を殺そうとした。何で俺を殺そうとするんだ? ヤツに怪我をさせる気はなかったんだ)
食品や雑貨を商って細々と暮らしを立てる人々にとって、商品は命の次に大事なものである。それを盗もうとするヤツは敵だ。暮らしの糧を守る。奪うヤツを攻撃する。当たり前ではないか。
クライドの貧弱な想像力は、奪われる人々の痛みには決して届かない。
2人はあっけらかんと殺す。
汝、殺すなかれ、というモーゼの十戒は、2人の世界にはかけらもない。殺すのも、極めて自然な暮らしの一部なのである。金を奪って逃げる2人の車に取り縋った銀行員の額の真ん中に車中から銃弾をぶち込んだのが始まりだった。
最初の殺人を犯して、さすがにクライドも動揺したかに見えた。3人で入った映画館で、きっかけを作ったCWにくどくどとあたる。
“You ain’t got a brain in your skull. On account of you, I killed a man. Now we’re all gonna be wanted for murder, and that’s you too, boy. What was you thinking about? If you ever do a dumb-ass thing like that again, boy, I’m gonna kill ya!”
(お前の頭には脳みそは入ってねえな。お前のおかげで、俺は殺しちまった。これで俺たちは殺人で指名手配されるんだ。手前もだぜ。何考えてやがったんだ? あんなクソみたいなことを2度としやがったら手前を殺すからな!)
クライドの思考は、殺された銀行員、残された家族、子供の死を嘆き悲しむ両親には向かわない。これで殺人犯になっちまった。強盗ではなく、殺人犯として追われる身になった、と怒るだけなのだ。心配するのは自分のことだけなのである。
この間、ボニーはスクリーンに見入っている。思わず声を荒げてCWに迫るクライドに、喧嘩なら外でやってよ! と言い放ってまたスクリーンに釘付けになる。自分たちが人を殺したという罪悪感はかけらもない。
そして2人は逃げるために殺す旅を続ける。バックとの再会記念写真では、ボニーは拳銃を腰だめにしてポーズを取り、クライドはマシンガンを構えてフィルムに収まった。人を殺すことが、彼らの日常にきっちり組み込まれた。
彼らはバンジョーの軽快なリズムに乗って逃げる。逃げる。これじゃあ、親も子もみんなが揃って楽しむ幼稚園の運動会だ。
まるでコンピュータゲームである。銀行を襲うのも、人を殺すのも、キーボードやコントローラーのボタン操作次第だ。うまいタイミングで操作すれば、銀行から大金を盗むことができ、追いすがる警官を射殺でき、うまく逃げおおせることができる。彼らの犯罪は、すべてがゲーム感覚で進む。捕まって、警察官に射殺されてゲームオーバーになっても、リセットすれば元に戻ってゲームを楽しめるかのようだ。
非現実感を何よりも際だたせるのは、クライドが性的不能者、インポテンツであることだ。ボニーとクライドは、お互いに強く惹かれている。だが、どれほど燃え上がろうと、2人は体で愛を完成することができない。
いや、一度だけ試みた。人を殺したクライドが、お前は家に帰れ、とボニーを説得する。
“This afternoon, we killed a man and we was seen. Now so far, nobody knows who you are, but they know who I am and they’re gonna be runnin’ after me and anybody who’s runnin’ with me. And that’s murder and now it’s gonna get rough.”
(今日の午後、俺たちは人を殺した。そして見られちまった。だけど、お前が誰かなんてヤツらは知らない。でも、俺のことはよーくご存じだ。ヤツらは俺と、俺と一緒にいるヤツを追ってくるんだ。殺人罪だ、これまでみたいな甘っちょろい追い方じゃないぞ)
だが、ボニーは断固として拒否する。私はクライドから離れない。
こんないじらしい女を前にして奮い立たない奴は男ではない。クライドも奮い立とうとした。試みた。キスし、抱きしめ、窓のブラインドを降ろし、ボニーを相手に男になろうとした。……、なれなかった。
“At least I ain’t a liar. I told you I wasn’t no lover boy.”
(少なくとも、俺は嘘つきじゃあなかったって訳だ。おれ、できないんだと言ったよな)
男であることをどうしても証明できない男と、人一倍体の渇きを覚える女(現実のボニーは色情狂だったそうだ)。そんな2人の間に成立する恋愛って? 私の想像力が乏しいのか、どんなに考えても具体的な像が浮かばないのだ。
そんなもんが、現実にありうるのか?
こんな非現実の中で、2人は盗み、殺し、逃げる。だから観客は安心して、自分の中の鬱屈、破壊衝動、暴力性、社会への憤りを2人に託して快哉を叫んだ。どうせ詰まらん世の中だ。奪え。殺せ。逃げろ。生きろ。世の決まり事をぶっ壊せ。君たちは自由だ。
ドキュメントタッチでこの映画が描かれたら、果たして観客は2人に感情移入できただろうか?
この映画は、アメリカがベトナム戦争の泥沼にどっぷりつかり、国家権力の重圧が重苦しく市民社会を縛っていた時代に作られた。自分の力では何ともならない現実を生きざるを得ない観客たちは、軽快なバンジョーの演奏に乗って進む、絵空事のような犯罪劇に究極の自由を見てカタルシスを感じたのではなかったか。
いや、公開当時は絵空事の世界であったに違いないこの映画は、しかし、今は絵空事とは思えない。思わず、嘘だろ! と叫び出したくなる現実が次から次へと押し寄せてくる。
1997年5月、神戸市で起きた酒鬼薔薇聖斗事件は、中学3年生が小学校6年生の子供を殺し、頭部を切り離して自分が通っている中学校の門前に置いていた。
2000年5月、豊川市で65歳の女性が刺殺された。犯人は17歳の男子高校生で、動機は
「人を殺す経験をしてみたかった」
同じ月、福岡県で刃物を持った17歳の少年が、高速バスを乗っ取った。
翌6月,岡山。いじめられっ子だった高校3年生がバットで野球部の後輩4人を殴り倒した。殺したと思いこんで、
「母親に迷惑をかけたくない」
と母親をバットで殴り殺し、逃走した。
この年12月、新宿・歌舞伎町のビデオ店を爆破したのは高校2年生の少年だった。爆発物は自作したもので、現場には散弾銃も持参していた。
「人をバラバラに壊して骨や内臓を見たかった」
「誰でもよかった」
が動機だという。
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ここ10年ほど、目を覆いたくなる、というより、思わず首をかしげたくなる悲惨な事件があとを絶たない。たぶん、それぞれの犯罪には生い立ちや家族関係、友人関係などそれぞれ違った様々な原因があるのだろう。だが、共通していることが一つだけある。現実感覚が希薄なのである。彼らは何をもって自分の現実だと認識しているのだろう?
ボニーとクライドの世界に酷似しているのだ。 いや、ボニーとクライドの世界を超えてしまっている。
実話をもとにした映画である。現実の2人は1930年に出会い、1934年5月23日、ルイジアナ州アーケディアで100発近い銃弾を受けて死んだ(ウィキペディアを参考にしました)。
映画は当初、その暴力描写が嫌われ、極め付きの悪評で迎えられた。しかし興業は大ヒットとなり、酷評していた評論家諸氏は舌の根も乾かぬうちに絶賛に転じたらしい。ま、いつの世でも評論家というのはそんなものだろう。
今では、青息吐息だったハリウッドを赤字から救い出した偉大な映画、70年代のハリウッド・ルネッサンスに道を開いたエポック・メイキングな作品、などと最大級の賛辞が寄せられている。
結果よければすべてよし、はあらゆる世界で通じる鉄則である。
【メモ】
俺たちに明日はない (BONNIE AND CLYDE)
1968年2月公開、112分
監督:アーサー・ペン Arthur Penn
出演:ウォーレン・ビーティ Warren Beatty =クライド・バロウ
フェイ・ダナウェイ Faye Dunaway=ボニー・パーカー
ジーン・ハックマン Gene Hackman =バック・バロウ
マイケル・J・ポラード Michael J. Pollard=C・W・モス
エステル・パーソンズ Estelle Parsons=ブランチ
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