2023
06.23

私と朝日新聞 津支局の12 高校野球の夏

らかす日誌

津での署回りは1年半で卒業した。次は三重県警担当である。

新聞記者2年生になった私は、同時に高校野球担当も命じられた。県警を取材しながら夏の甲子園大会に向けた三重県予選を全部取り仕切るのである。

夏の甲子園は球児たちの夢である。朝日新聞社と高校野球連盟の共催で、かつては朝日新聞の販売拡大ツールだったらしい。朝刊1面の「朝日新聞」という題字右側の余白部分に、甲子園大会開催中は、試合結果の速報を赤インクで印刷して配達していたらしい。それを売りして新規読者を開拓していたというのだ。といっても、私はそんな新聞を見たことがないので真偽は分からない。

そんな経緯があったとしても、いまや夏の甲子園は朝日新聞だけのものではない。

「あれはNHK の主催だ」

と信じている人が結構いる。全試合を中継するからだろう。
いや、どこの主催などという七面倒なことを考える人もあまりいないのだろう。いまや日本全国挙げての夏の風物詩というビッグイベントになった。

そんな歴史的いきさつは別として、朝日新聞にはやはり「主催者意識」がある。甲子大会の開会式(閉会式だったかな?)で朝日新聞社長が挨拶するし、その予選である地方大会では支局長(いまは総局長という)が開会式で挨拶する。そして、担当記者には、他のどの新聞にも負けない紙面作りが求められる。

だから担当記者は、春頃から高校野球にかかりっきりになる。県高野連の役員たちと頻繁に会って甲子園に出場しそうな有力校を絞り、県下の高校を回って野球部を取材する。しょっちゅう県警を留守にせざるを得ないから、その間は県警を離れて三重県政担当になった前任者がカバーした。

予選が始まる7月が迫ると、チーム紹介を始める。出場する総てのチームを紙面に掲載する。前年踏襲は面白くないので、毎年何かの工夫を加える。私は確か、投手力、守備力、攻撃力など戦力の自己診断をグラフにしたと記憶する。そして、ベンチ入りするメンバー表を載せ、40行ほどの原稿を書く。
それが終われば続き物を始める。これも毎年変える。中身は担当記者に任される。私は5〜6回の連載を書いたはずだ。こうして地方版をあげて球児たちの夏を織り上げる。
連載の中身はほとんど忘れたが、最終回でトラブったことだけ覚えている。私の意図は、甲子園出場ありき、で野球に没頭する野球名門校と、甲子園出場までの力はない野球部でそれでも野球を続ける2人の高校生の生活ぶり、野球感などをを淡々と書いてみようというものだった。それれ高校野球の一面が浮かび上がりはしないか? と考えた。ところが筆力が足りなかった。2人の高校球児の暮らしを並べただけの原稿になってしまった。

「これじゃあ、な」

といったのは、確か支局長である。

「そうですね」

とデスクが応じた。私はだんまりを続けた。

「おい、他になんか取材していないのか?」

「はい、これが総てです」

……。

救いの手を差し伸べてくれたのはデスクだった。

「僕が何とかしますわ。大道君、ちょっとそこに座れ。それでだな」

デスクが私から取材した。そして原稿を仕上げた。
私にはその程度の筆力しかなかった。

さて、この年の有力校はどこか。高野連幹部の話はほとんど一致していた。宇治山田商業が一番強い。なるほど、ということは宇治山田商業の球児たちと私は甲子園に行くのか。そう、担当記者は優勝校と一緒に甲子園に行くのである。
であれば、私は宇治山田商業の野球部を深く知らねばならない。足繁く、伊勢市の宇治山田商業に通った。練習ぶりをじっくり見学する。監督の話を聞く。やがて選手たちとも話し始めた。君たちのことを甲子園から故郷に届ける。いい記事を書くには君たちをもっと知っておきたいんだ。

そんなことが続くと、自然に情が移る。監督の人間観、野球感、教育観に共感を覚えた。選手たちが可愛くて仕方がなくなる。彼らも私を慕ってくれるようになった。

「おい、行こうな、甲子園。頼むぜ」

そんな話もするようになった。うん、俺はこいつらと一緒に甲子園に行く!

取材は公平でなければならないという建前がある。政府べったりの報道はよろしくない。かといって、監視役の立場を越えて政府にいちゃもんをつける記事にも問題がある。新聞は是々非々の立場を貫かねばならない。確かに私もそう思う。その原則論からすると、あの時の私は完全に公平原則を捨ててしまっていた。大会が始まる前から、宇治山田商業が優勝するものと決めてしまっていたのである。不公平の極みといわねばならない。だが、いかに原則を守ろうとしても、新聞記者にも情があるのも事実なのだ。

大会が始まると担当記者は多忙だ。朝7時半には球場に着く。試合が始まるとスコアブックをつけながら戦況を追い、あわせて写真も取らなければならない。取材席からではいい写真は撮れないから、シャッターチャンスが来そうな展開になれば、撮影ポイントに行く。3塁に走者がいれば、走者が本塁にすべり込むような交錯場面を取りたい。1塁側の適当な場所に行く。アングルを変えたければスタントに足を運ぶ。本塁の写真だけでは面白くないので、2塁を狙う。ま、野球の写真をご覧になったことがあれば、それぞれの写真がどこから撮られたかがおわかりいただけるはずだ。その写真を、戦況を見ながら1人で撮り続けるのだ。

試合が終われば、15行ほどの戦評を書く。タクシーを呼んで撮影済みのフィルムを支局に送る。それぞれのフィルムに、どんな場面を取ったのかの説明も付けてやる。
それだけではない。スタンド雑感がいる。スタンド雑感とはグラウンドで力の限りを尽くしている選手たちに応援を送っている観客の中に、話題を見つける。

そして、その日のハイライトも書かねばならない。試合を決めた1球、練習中の怪我を克服して試合に臨んだこの選手、試合中のこぼれ話、素晴らしいファインプレー……。

そして、その日が来た。あれは準決勝だった。宇治山田商業が負けたのだ。相手は三重高校。0—2の完敗だった。すっかり宇治山田商業に入れ込んでいた私は、ネット裏から食い入るようにグラン雲度を見つめ続けた。まだいける、1点差じゃないか。2点ぐらい跳ね返せるぞ。
試合が終わった時、何だか気が抜けた。

優勝候補が敗れたのである。これはハイライトを書かなければならない。宇治山田商業の選手たちは2塁ベースの後方で車座になっている。話を聞かなければ。
私はグラウンドに入って彼らに向かって歩いた。歩くうちに、何だか鼻がむずがゆくなってきた。えっ、えっ、これは何だ? やがて顔がクシャクシャに歪み、私は涙を流し始めた。涙を流しながら、

「おい、どうして負けちゃったんだよ……」

と選手たちに話しかけた。確か、キャッチャーの子が

「済みません……」

といった。

その年、三重県代表として甲子園に駒を進めたのは三重高校だった。甲子園に同行し、同じ宿に泊まり、開会前の練習時には私も甲子園球場のグラウンドを踏んだ。初めて体験するふかふかの土だった。周囲のアルプススタンドを見上げる。天にも届きそうな高さに見えた。大会が始まれば、このスタンドが人で埋まる。

「こんな所で高校生が優勝旗を目指してプレーするのか。俺なんて、観客に押しつぶされそうで満足にボールも投げられないような気がするなあ……」

三重高校は初戦で負けた。三重高校球児たちの夏が終わった。私の夏も終わった。いや、私の夏は宇治山田商業が負けた日に終わっていたのかもしれない。

甲子園での仕事を終えた私は津市に戻り、短い夏休みを妻女殿、可愛い盛りの長男と過ごした。さあ、明日からは県警の取材に本腰を入れなければならない。