2023
07.19

私と朝日新聞 岐阜支局の13 子ども見つけた、の2 乗車拒否

らかす日誌

乗車拒否
 1時間の通学大行進
  「運動ぐつ、いいとこ2ヶ月ね」

道端にそびえる大イチョウ。その下が、子どもたちの、朝のサロンになる。恵那山系の頂が赤みを帯びるころ、みんなやってくる。「おはよっ」。哲也君が顔を出す。ゆかりちゃん、正人君、みどりちゃんも来た。
さあ、出発。凍(い)てついた、山あいの道をぐんぐん下る。ランドセルが揺れる。分厚い手袋、耳当て。吐く息のかたまりが、大きく白い。行く先々で何人かが列に加わる。50数人。「広岡っ子」の大行進だ。約1時間。校舎が斜め下に見えたころ、バスが列を追い抜いていく。
10月1日、快晴。中津川市阿木小で運動会が始まっていた。校下を4つに分けた地区別対抗。広岡地区は青組だ。綱引き、リレー、騎馬戦……。演技が進む中で、例年にはないどよめきが応援席にあった。
「万年ビリ」の青が2位にいる。児童も親も先生も、大番狂わせが信じられなかった。「今年の青は手ごわいぞ」「これがあの広岡の子んたか」
青はそれほど弱かった。いつも3位に大きく引き離された。その青がふんばる。花田美実先生(45)は「勝てよ」と祈った。あと2種目を残して、まだ3位にいる。
閉会式。得点の発表。「……3位、白、155点。4位、青、146点」。拍手が会場を包んだ。最後の2種目で逆転されはした。が、競り合った末のビリなのだ。
大躍進の秘密は何だろう。広岡の子んたがバス通学をやめて、歩き出したから。会場のだれもがそう信じた。
広岡地区は学校から東へ数㎞。古くから分校があった。が、37年に廃校になり、学校がうんと遠のいた。辺ぴな山あいの集落。日に何本か、国鉄バスが走っている。保育園児も、小学生も、当然のようにバスで通園、通学するようになった。
50年の運動会で初めて地区別対抗が採用された。その練習で、広岡地区はころころ負けた。地区別に分けてみて、初めて極端に見劣りすることがわかった。
「同じ学校なのに、なぜオレんただけが負けるんや」。上級生が集まれば、そんな話になった。広岡っ子は思案した。「体格は同じ」「違うのは……」「そうだ、バスだ」。全員が乗るのは広岡ぐらい。玄関から校門までバス。歩くのは運動場を横切るだけという子だっていた。「父ちゃんたは昔、5㎞も10㎞も歩いた、といっていた」
運動会が近づいた日、地区の子ども会が開かれた。6年生が口火を切った。「おい、これから歩いて登校しようや」。その場で、徒歩通学が決まった。
先生たちは、それをしばらくして知った。「やるな、あいつら」「さて、いつまで続くやら」。2つの思いが同居した。楽に流れ、根気のないのが現代っ子。感心するより、心配の方がやや大きかった。
案の定、はじめのうちは足並みがそろわない。参加は6割ほど。「歩くのはいい。だけど、我が子には……」。親心が足を引っ張った。「せっかくバスがあるのに」「そんなむごいことを」
主唱者の6年生に文句をいう母ちゃんがいた。楽なバス通学から抜け出せない子どももいた。バス派と徒歩派。大げさにいうなら、地区が2つに割れた。子ども、親、それぞれに気まずい空気も漂った。
しかし、それを運動会が解決してくれた。その年、やはり青の惨敗。応援のしがいがなくて、親達は歯ぎしりした。今度は父ちゃんたちが考えた。
かつて広岡といえば、優勝、優勝の栄光の地区。現にいまも、大人が中心の区民運動会は、いつもトップだ。なぜだろう。子どものころ、バスなどない。あってもたぶん乗れなかったろう。農作業も手伝った。重い農機具もかついだ。つらかった。しかし、そうして体力がついた。やっぱり、子どもは歩かさねば……。
一気に徒歩派が増えた。半年後、全員の足並みがそろう。
子どもたちは本気になった。“乗車拒否”が徹底した。車で通りかかった知り合いの人が「おい、乗ってけ」。「いや、みんなで決めたから歩く」。そういえば、大人もいまは、どこへ行くにも車、車。田畑仕事も機械がしてくれる。あまり、体を使わなくなった。「子どもを見習わなくては……」。身の回りが機械化する中で、いつの間にか忘れてしまった何か大切なものを地区の大人たちも思い起こす。
この12月の球技大会。高学年はビリだったが、低学年は8チーム中2、3位を占めた。1年生から歩き始めた低学年、その差かな、花田先生は思う。
「いいとこ2ヶ月ね。前はその倍もったよ」。3年と5年の子を持つ小栗佳代さん(35)は、運動靴の寿命のはかなさにあきれている。おろしても、おろしても、すぐにかかとが減り、小さな穴が。でも、1足はきつぶすたびに、2人がたくましくなる。そんな気がしてならない。(1979年1月1日)