昨日、第4回桐生子ども新聞コンテストに向けた実行委員会を開いた。参加者は13人。午後6時の開始である。
議題は今年の子ども新聞実施要項の確認など事務的なものが中心だったが、いくつかの重要な問題提起があった。
まず、新聞の「作成方法」についてである。対象は小学3年生から6年生。昨年、応募作の中にパソコンで作成された新聞がいくつかあったことが議論の引き金となった。 事務局は、升目を入れたB4サイズの専用用紙を各小学校に配り、そこに書き込んでもらう形式をとっている。パソコン作成の新聞は手書きに比べればはるかに読みやすいが、専用用紙の升目に文字を正確に流し込むのは至難の業だろう。結果として、どれも升目を無視したレイアウトになっていた。これを許容すべきか否か。
意見の応酬はあったが、最終的には容認論でまとまった。小学校でICT教育が進んでいる現状を考えれば、升目に縛られない新聞作りも認めざるを得ない、というのが結論だった。
そこから派生したのが、AI問題である。私がAIを駆使していることは折に触れて原稿にしているが、コンテストに応募する児童がAIを使うことを認めるべきか。運営委員の1人が、象徴的な意見を述べた。
「記事を書くという行為には、内容を整理し、構成を考え、言葉を選び、見出しを試行錯誤しながら生み出していく過程そのものに価値があります。ショートカットを許すAIの使用は、事前に明文化して禁止すべきではないでしょうか」
真っ当な意見である。だが、私は異論を述べた。
「子どもたちにAI禁止を強いるのは無理がある。この時代だ、現役の新聞記者だってAIの世話になっているだろう。記者が使っているものを、子どもが使ってなぜ悪いのか。AIはあくまで補助手段であり、文房具の進化形だ。あまりにAIに頼りすぎた空虚な作品は、審査員が見抜いて落選させればいい」
他の委員からも
「AIは文房具の1つと考えればいい」
との声が出て、禁止の明文化は見送られることになった。
翌日、反対意見を述べた彼からメールが届いた。委員会の結論には従うが、自分の信念を伝えておきたいという。その真摯な「私信」に対し、私は次のような返信を書いた。
「いやはや、素晴らしいファイティングスピリットですね。嬉しくなりました。
私も、あなたの主張を理解できないわけではありません。私は「らかす」で、朝日新聞時代を振り返った「私と朝日新聞」という連載を約1年続けたことがあります。そのひとつにこんな記事がありました。
「私と朝日新聞 津支局の20 津支局で起きたラッダイト運動」
この当時の私は、問題は違っても、あなたが言う「身体性」を信じ、実行していたいのではないかと思います。だけどこの記事を書いた時、私は「ラッダイト運動だった」と切り捨てています。
さて、この「身体性がある」、あるいは「手触り感がある」という感覚は、どこに根拠を持つのでしょうか。自分の中で探してみました。答えは、それまで自分が体験したこと、だと思います。つまり、どちらもノスタルジー、今を変えたくない、という保守的な考えではないかと思うのです。
科学、技術は決して後戻りしません。「身体性」を考える時、時間を2000年ほど巻き戻してみましょう。人は移動するのに自分の足を頼るしかありませんでした。それが馬という移動手段を持ち、やがて自転車ができ、車が生まれます。と考えると、移動するという行為の「身体性」とは、どの時点に根拠を措けばいいのでしょう?
文字もそうです。日本に文字が入ったのは確か6世紀。それまで日本人は文字を持たず、歴史は語り部の頭の中にしかありませんでした。さて文字が中国から入ってきた。新しい文化、技術です。しかし、文字なしに慣れていた人たちの中に、
「文字を使うなんて、伝達の身体性を壊すものだ」
という感覚がなかったかどうか。
言葉もそうです。日本は長い間、書き言葉と話し言葉が違っていた。武士階級では、漢文で文章を書くのが当たり前だった。その改革が始まったのは明治時代です。言文一致を求めて文学者が苦労します。しかし江戸時代まで続いた文章に愛着を持つ人も多く、森鴎外の小説はその名残のような気がします。つまり、森鴎外は
「こんなへなへなした文章では俺の思いは表現できない」
と、新しい言文一致の文体に違和感を持ったのではないか。
私の世代は、テレビがない時代に生まれました。わが家にテレビが入ったのは確か中学生のころです。テレビというメディアは、一億総白痴化論を生み出しましたが、私の子どもは産まれた時からテレビと接しています。その体験が、彼らの「身体性」の基礎になるはずです。
そうそう、私個人でもこんな体験があります。
「私と朝日新聞 2度目の東京経済部の50 ワープロの話」
それなのにいまでは、パソコンがなければ文章を書けません。もちろん、漢字を忘れて書けなくなる、などの副作用は近年増えました。しかし、パソコンは手放せません。ある論者が
「漢字の書き方なんて忘れていい。パソコンの画面に現れた漢字が正しいかどうかを判断できれば十分というのがパソコン時代だ」
と語っていたような記憶があります。全面的に賛成するわけではありませんが、機械にできるところは機械に任せ、人間はもっと違うところに頭を使うべきだ、とは思います。
繰り返しますが、科学、技術は決して後戻りしません。前にしか進まないのです。そして、いま小学校でコンピューター教育が行われ、子どもたちはスマホを自在に操っています。彼らが私たちの年代に達した時、彼らがいう「身体性」は、いまの体験に基礎を置くしかないのだと思います。
もちろん、科学、技術は決して後戻りしません。といっても、それがいいか悪いかは別問題です。
そうそう、こんな記事も書きました。
「私と朝日新聞 津支局の17 恥ずかしいキャンペーン」
お暇な時、声をかけて下さい。また酒を飲みながら議論しましょう」
実行委員会は酒付きである。議論が山を越えたら、みんなで食事をし、酒を飲む。昨夜も飲み足りなかった私は2人を誘って桐生の繁華街(だった、という方が正確か?)へ繰り出し、ビールとウイスキーをたらふく飲んだのであった。

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