おそらく、こうしたアメリカでの成果に刺激されたのでしょう。自動運転道路は世界中で研究され始めました。イギリスでは道路交通研究所が、西ドイツではジーメンスが手がけています。日本でも1960年代前半、通商産業省工業技術院機械技術研究所(現在は、独立行政法人産業技術総合研究所)が取り組みました。実験道路に誘導ケーブルを埋め込み、1967年にはテストコース上を時速100kmで走らせることができるところまで研究は進みました。
しかし、間もなくこの波は静まります。実験的な道路なら誘導ケーブルを埋設することもできます。しかし、実社会でこの研究成果を活かそうとすれば、全ての道路にケーブルを埋め込まなければなりません。また、車をさらに自由に走らせようとすれば、道路脇にも様々な制御装置を設置する必要があります。
1969年、アメリカの研究者が論文をまとめました。それによると、こうした設備を道路に備えるには、1車線1マイル(1.6㎞)あたり、2万ドルから20万ドルかかるとはじき出しました。当時は1ドル360円の時代ですから、1㎞当たりの日本円に直すと、450万円から4500万円になります。そして設置が終わったとしても、ことは車の安全性に関わりますから綿密なメンテナンスが必要になります。大きな負担です。
もちろん、自動運転道路にもそれなりのメリットはあります。雨が降っても雪が降っても、この設備なら車を制御することができます。しかし、自動運転車にいかに夢があるとはいえ、社会はこの膨大なインフラ投資、メンテナンス・コストに耐えることができるか?
加えて、当時の技術水準の問題もありました。システムに必要なトランジスタなどの部品は、いまのものに比べればはるかに大きく、性能も劣る上、壊れやすいものでした。通信技術もずっと未熟なものでした。
発明は時代に制約されます。レオナルド・ダ・ヴィンチはヘリコプター「垂直飛行機械」を考案しました。現代の目で見ても良くできた設計図で、いまの技術で作れば飛ぶに違いないといわれます。しかし、ダ・ヴィンチのヘリコプターは飛びませんでした。軽くて丈夫な機体材(アルミが最適と思われる)と強力な動力源(エンジンやモーター)がダ・ヴィンチの時代には存在しなかったからです。こうした問題を「ダ・ヴィンチ問題」といいます。自動運転道路も「ダ・ヴィンチ問題」に絡め取られてしまったのです。
こうして、自動運転道路の研究は世界中で勢いをなくしました。研究者たちの関心は、限定された場所での自動運転道路に限られるようになりました。
またこのころ、米国の自動車業界は強烈な向かい風にさらされます。まず、自動車の安全問題が全米の耳目を集めました。著名な市民活動家ラルフ・ネーダー氏がGM車の安全上の欠陥を指摘したのがきっかけでした。このため、1966年には連邦交通車両安全法が成立、翌年から連邦自動車安全基準でシートベルトを備えることが義務化されました。
同時に、アメリカの空は汚れていました。あちこちで車の渋滞が起き、車が出す排ガスが大気を汚染したのです。つい最近までの北京を思い起こすといいでしょう。このため、1970年には通称マスキー法が成立し、排ガスの浄化をメーカーに義務づけました。
そして1973年には第1次石油危機が勃発します。この年10月、イスラエルとエジプト、シリアなどアラブ諸国の間で第4次中東戦争が始まりました。すると、ペルシャ湾岸の6つの国が原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げると発表、翌日にはアラブ石油輸出国機構(OPEC)が原油生産を段階的に減らすと宣言しました。それだけでなく、イスラエルが占領地から引き上げるまでは、アメリカなどイスラエルを支援する国へ石油を輸出しないと決めたのです。
それまで石油をがぶ飲みする大型車を作っていたアメリカの自動車メーカーは対応に追われます。もともと小型で燃費が良かった日本車はいち早く排ガス浄化を成功させていたこともあり、評価が急速に高まってアメリカでの販売台数を伸ばしました。アメリカ勢が窮地に陥ったのです。
安全対策。省燃費対策。そして排ガスの浄化など、いくつもの、すぐに解決しなければならない現実的課題が、それまで我が世の春を謳歌していたアメリカの自動車メーカーの前に立ちふさがりました。全力を挙げてそれらの課題を解決しなければ企業の存続はおぼつかなくなります。夢を追い求めるゆとりが失われました。
金食い虫ともいえる自動運転道路構想は急速に下火になりました。

コメント