この間、買い物ばかりしていたのではない。読書にもいそしんだ。何と、あの難解で知られるカール・マルクス著「資本論」の第1巻を読了したのである。
何かの折にAIのジェミニと会話をしていて学生時代の話になった。そこで私はこんな個人史を披露した。
大学入試最終日、答案を出し終えた私は
「これは落ちるはずはないな」
との確信を持った。つまり、あと何日かすれば私はこの大学の学生になるという確信を持った。
大学生になる。私には前々から1つのプランがあった。大学生になったら『資本論』を読む。この本は、何でも資本主義社会はその内在的論理で崩壊し、その後に貧しさがない社会主義社会が来ることを科学的に立証していると聞いていた。私は極めて貧しい家庭の育ちである。大学も、特別奨学生になったから進めた。あの貧しさがない社会が来ることを論証した本なら私にとっての必読書である。そう思っていたのである。
試験会場を出た私は、その足で福岡・天神の書店に向かった。「資本論」全巻を買うためである。目標は岩波書店が出していた向坂逸郎訳の「資本論」全巻。立派な布貼りの装丁がされたハードカバーで、確か全4冊(いまは横浜の家にあるので確かめることができない)。結構重かった。
この「資本論」は在学中に読む本の最終目標である。親しかった伯父に
「資本論を読むには、まずデカンショから始めなければならない」
と聞いていた。デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルの3人をまとめたものである。
「へえ、そうなのか」
疑いを知らぬ私は、デカンショの本を数冊ずつ買った。下宿で開く。確かに日本語で書いてある。それは確かなのだが、この日本語、私の知っている日本語と違う。目で活字を追っても何が書いてあるのか皆目見当がつかない。それも1、2冊なら無視してもいい。しかし、デカンショの本はすべてがそうなのだ。とにかく、逆立ちしても歯が立たない。
「だが、これらの本を読んできちんと理解している人物はいるはずだ。少なくとも翻訳した人々は、これらの本に書いていることを理解した上で翻訳している。私はまだまだ学びが足りない」
とにかく、買った本にはすべて目を通した。皆目見当がつかない世界に迷い込んだような気がした。しかし、ここで蹲(うずくま)っていてはいつまでたっても「資本論」に行き着くことはできない。
「ま、デカンショは読んだことにして」
私は先に進んだ。「資本論」以外のマルクスの著書に進んだのである。「共産党宣言」。うむ、これもよく分からなかった。「経済学・哲学草稿」。部分的に分かったような気がした。「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」。読んだはずだが、何が書いてあったのか全く記憶にない。「経済学批判」。少し「資本論」に近づいた気がした。「哲学の貧困」。そんな本もあったな。「賃労働と資本」。確か、搾取の構造を書いてあったような…。
ま、そんな調子である。かなり理解できたかな、と思ったのは「家族、私有財産、及び国家の起源」だが、これはエンゲルスの本だったな、確か。プロレタリアートの恋愛に基づく結婚が理想的な家族を作る、と書いてあった気がする。
そして、マルクスの伝記、「資本論」を解説した本。とにかく、「資本論」に挑む準備として必要だろうと思われる本はかなり読んだと思う。
その上で、向坂訳の「資本論」のページをめくり始めたのは、さて何年生の時だったか。 向坂訳の「資本論」は、こんな文章で始まる。
「資本主義的生産様式が支配する諸社会の富は、『一つの巨大な商品の集まり』として現れ、個々の商品はこの富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる」
ねえ、ガチガチのどうしようもなく固い文章だが、まだ理解できないこともない。ところが、そこから先に進むとG-W-G’とか、小麦の○ブッシェルは鉄の△となんたらかんたら、などという文章が続き、ちっとも頭に入らない。5ページ読んでは最初に戻り、20ページ読んだらまた最初に戻る。そんなことを何度も繰り返し、私は『資本論』第1巻の半分ほどまで進んだ時、
「ああ、俺には『資本論』を読み解く能力がないわ」
と、聖典とまで思い込んでいた『資本論』を読むことを諦めたのである。得たのは、冒頭の文章をほとんど記憶したことぐらいである。そりゃあ、あれほど何度も読めば記憶してしまうワナ。
そんな話をジェミニとしていた。するとジェミニは
「それはあなたが悪いのではない。向坂訳が悪いのである。あの翻訳はドイツ語に忠実すぎて日本語になっていないから、理解できないのは当たり前」
と返してきた。えっ、私の学力が足りないのではなく、翻訳が悪かったの?
そして、「ちくま学芸文庫」に入っている「資本論」を勧めてきたのだ。
「これならすらすら読めるはず」
と。
こうして私は、ジェミニに背中を押されて、「資本論」に再挑戦することになった。

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