2006
07.04

2006年7月4日 スポーツ立国?

らかす日誌

日本はとうとう、経済力で世界の後塵を拝した。アメリカにも、欧州共同体(EC)で結束を固めるヨーロッパにも引き離され、アジアの新興諸国にも水をあけられてアップアップ状態にある。
いまや金融だけでなく、かつては世界のトップにあった物作りもすっかりダメになった。このままじゃあ、みんな貧乏になっちまう。それこそ日本沈没だ。じゃあ、何をしよう?

どこかでそんな会議があった。参加者に知恵者がいた。

「こんなになると、すぐに『観光立国』なんてつまらない話をする人がいるが、日本の観光資源で世界の金を招き入れるのは、はっきり言って難しい。これからはスポーツの時代です。オリンピック、ワールドカップ、ワールド・ベースボール・クラシック、ネタはいくらでもある。それに、最近は日本の国技だったはずの大相撲だって、外国人が多い。いまの横綱も、次の横綱候補も、どちらも外国人ではないか。すべてを日本に誘致しましょう。日本で開催しましょう。世界中から、ま、人品骨柄は問わぬとして、あれほど多くの観客が詰めかける。その収入をはじけば、産業の落ち込みなんてすぐにカバーできる。『スポーツ立国』です。すべての国際大会を日本で開くのです。手始めは東京オリンピックです。石原都知事と力を合わせて誘致を成功させましょう。そうそう、東大、京大をはじめとした旧帝大はスポーツ専門学校にする政策転換も必要です」

スポーツ立国の勧めだった。満場一致で可決された。なかでも、マスコミ出身の委員たちの熱の入れ方は突出していた。それは、直ちに報道に反映され始めた……。

とでも考えなければ理解することが難しい現象が続いている。

今回の始まりは、昨夜のテレビ朝日、ニュースステーション。トップニュースが中田英寿の引退だった。
どれほどの名選手なのか、は知らない。だが、一介のプロスポーツ選手が現役を引退するということが、それほどニュース価値の高いことなのか? ほかに知らせるべきことはなかったのか?

まあ、テレビはテレビである。ニュース価値の大小より視聴率の大小に引きずられることもたまにはあるかもしれない。妻殿と

「なんで中田の話を延々と見せられなきゃいかん? 俺、そんなに悪いことをしたか?」

毒づきながら、ビールを飲んで寝た。
それで終わるはずだった。
今朝、自宅に届いた朝刊を見て、度肝を抜かれた。

「中田英引退 『個』貫いた時代の先駆者」

一面トップにそんな見出しが踊っていた。朝日新聞である。クオリティペーパー、インテリの読む新聞といわれてきた朝日は、いつのまにスポーツ紙になったのだろう?

会社に出て、ほかの新聞をチェックした。

「中田英選手が引退 日本けん引世界に挑戦 HPで『卒業』」(毎日)

「中田英引退 『独W杯最後 決めていた』」(産経)

朝毎読といわれ、朝日に次ぐクオリティを持つと見られてきた毎日もスポーツ紙になっていた。朝日と対抗するかのように右よりの紙面作りをしてきた産経もスポーツ紙になっていた。サンスポはどうするのだろう?

見識を示したのは、読売東京である。ともに1面トップは日銀の金融政策で、中田引退は1面ではあったがトップではなかった。なんだか、ホットした。

こんな新聞ばかり見せられていると(最近は「見る」ことが多く、「読む」まで至らない)、なんだか戦争中に戻った気がしてくる。

報道を見ている限り、今頃日本チームは準決勝に備えて最後の調整に入っているはずだった。決勝トーナメントにも進めないなんてあり得ないことだった。
ワールドカップが始まってからも、負けたオーストラリア戦すら1面トップで報じられた。えっ、と驚いた。
引き分けたクロアチア戦は、数々の不運が重なって引き分けに終わったかのように報じられた。たまたまテレビで観戦していた私は、あの試合でよく負けなかったなあ、運が良かったなあと感じた。
ブラジル戦に勝てると思った人がどれほどいたのだろう。でも、報道は「勝つしかない」の一点張りだった。そして、負けた。

どうだろう? 日本は必ず勝つ。今回の戦闘も大勝利、と大本営発表を垂れ流し続けた戦中の新聞と、そして結果としての敗戦と似てないか。

闘いの予想というものは、彼我の力量を正確に分析したうえでないと、単なる願望の羅列になる。ワールドカップ報道には、客観的な視点が皆無だった。勝ちたいね、勝とうよね、必ず勝てるよ、というガキの願望しかなかった。

日本が太平洋戦争に突入した時、日本は米国の力量を知ろうともしなかったらしい。戦えば必ず勝つ。神州不滅。存在したのは空虚なスローガンだけだった。それがメディアの力で全国に広まった。

ワールドカップ報道に、戦争中の報道が重なって見える。中田の引退は、戦前の教科書に載っていたという、

「木口小平は死んでもラッパをはなしませんでした」

という戦争英雄譚、戦意高揚小話に似ていないこともない。

国民の多くがスポーツに熱狂するようなったのは、ナチス時代からだと何かの本で読んだ記憶がある。何冊か取り出してみたが、探し出せない。仕方なく記憶に頼ると、それにはこうあった。

ナチス時代に映画などのメディアが発達して全国民が同じスポーツに接するようになったのも熱狂の背景の1つである。しかし、忘れてならないのは、ナチス政権が、意図的に国民の目をスポーツに向けさせたことだ。いわば、国民を操る手段の1つとしてスポーツがあった。

政治の延長である戦争とスポーツ。いま日本で何が起きているのか。メディアは何を考えているのか。
最近のバカ騒ぎを見ていると、なんだか薄ら寒くなってくる。