2008
11.24

2008年11月24日 私と暮らした車たち・その14 アコードの2

らかす日誌

アコードは、我がどら息子と極めて深い縁で結ばれた車だった。
ヤツが運転免許を取ってはじめて乗った車である。
ヤツがベコベコにした車である。
ヤツが買い換えのきっかけを作った車である。

新車のアコードが我が家にやってきて、間もなく私は名古屋に転勤になった。このあたりは、「グルメらかす 第16回 :野菜の手巻き寿司」以降をお読みいただきたい。
そこにあるように、長男が高校受験を控えていたため、単身赴任を選んだ。アコードは、当然のこととして名古屋に伴った。横浜の家に置いていても、誰も運転できないのだ。妻は免許を持っていない。我が妻は想像を絶する不器用人間である。免許を取れるとも思えないが、もし持っていたら、今頃半身不随になっている。

概ね月に1回帰省した。足はいつもアコードである。土曜日の早朝に名古屋を出て、午前10時頃横浜の自宅に着く。ドア・トゥー・ドアで370kmの距離を4時間以下で走るのが私の目標だった。なかなか達成できなかったが。
帰りは、月曜日の午前5時頃、握り飯を持って横浜を出る。東名高速道路をひた走り、腹が空いたら握り飯を食って午前9時頃には名古屋に着く。その足で職場に向かう。なかなか過酷な日々であった。

「そうだ。眠るのは横浜に戻ってからでもいいんだ」

と突然思い立ち、金曜日の夜に酒を飲むのを我慢、仕事を済ませて午前0時頃に名古屋を発ったことがあった。東名高速道路も、夜はすくだろう。3時間半で自宅にたどり着けるかも知れない。
という思いこみが、私をスピルバーグ監督の「激突」の世界に誘うとは、神ならぬ身の私には知る術がなかった。

全く逆だった。真夜中のの東名は長距離トラックで銀座状態である。とにかく混む。
なるほど、日本経済の物流はこのようにして支えられているのか。真夜中に荷物を満載して目的地に向かう。長距離トラックの運転手さん、ご苦労様!

とは、夜の東名を走ったことがない人の戯言(たわごと)である。真夜中の東名高速を名古屋から横浜までノンストップで走った私は、声を大にして言う。

「あんたら、もう少しほかの車に気を遣えよ!」

バックミラーに、後ろから来る大型トラックのライトが映る。それがだんだん大きくなる。おいおい、そんなに近づくなよ、と思っている内にバックミラーに映るライトはぐんぐん大きくなり、ピッタリと後ろに着ける。怖い

アクセルが自由に踏めれば、恐怖心は解消する。大型トラックに比べれば、アコードの加速は何倍もいい。後ろのトラックが近づきすぎたと思えば、アクセルを踏んで引き離せばいいのだ。
ところが、アクセルが踏み込めない。前に大型トラックがいて通せんぼをしている。私のアコードは大型トラックにサンドイッチにされたハム状態なのだ。では車線を変えようか。横を見る。そこにも大型トラックがいて私の車線変更を阻む。
これならサンドイッチのハムの方がまだましである。ヤツらはパンに上下を挟まれているが、嫌なら横に逃げるチャンスがある。我がアコードにはそれすら許されない。一方を中央分離帯に、残りの3方を大型トラックに囲まれた私は、前の大型トラックが急ブレーキを踏まないように、後ろの大型トラックのブレーキが送れないようにひたすら祈り続けるしかない。
スピルバーグ監督もまだ世に出る前、同じような経験をしたのではなかろうか。

ああ、やっと前のトラックが左車線に入った。よし、この隙に後ろのトラックを引き離そう。アクセルを踏み込む。速度計の針が小気味よく上がり、バックミラーに映っていたライトが見る見る小さくなる。へん、ざまー見ろ!
いかん。また前に大型トラックだ。のろい。走行車線にも大型トラックがいて前に出られない。おいおい、そんなにゆっくり走るなよ。あれっ!? また後ろのトラックがグングン迫って来るぞ……。

なあ、大型トラックの運ちゃんたちよ。そりゃあ、あんたたちは平気だろう。乗ってるのが大型トラックで、運転席はずっと高いところにある。アクセルとブレーキの操作をちょっとばかり間違えて前の乗用車に追突しようと、あんたに怪我はない。だけど、大型トラックに追突された乗用車の運命を考えたことがあるか? その乗用車の前にも大型トラックがいる。あんたがブレーキ操作を間違えれば、乗用車は大型トラックと大型トラックの間でペシャンコだぜ。
少しは想像力を働かせて、前を行く乗用車の運転手の恐怖感を分かってやってくれないかなあ。

名古屋から横浜・町田インターまで、そんなことを考え続けた。が、考えただけで現実が変わるわけはない。現実を変える力も私にはない。であれば、乗用車を運転する人間にの選択肢は1つしかない。
その後、夜中の東名を走ったことはない。
君子危うきに近寄らず、しかないのである。

最初の車検に出したのは、名古屋にあるホンダのディーラーだった。受け取りに行くと、担当者がいった。

「走行距離から見ると、ブレーキシューの減りが少なすぎるんですよね。どんな走り方をされてます?」

ははあ、そうなのか。意図したことはなかったが、そんな珍しいことになっているか。であれば、技術者としては当然の疑問であろう。疑問には正確にお答えせねばなるまい。

「ああ、私、ブレーキを踏むのは嫌いなんですよね」

彼は、ギョッとした顔をした。ん? 何かおかしなことを言ったか? ああそうか、この人、ユーモアを解する知性がないんだ。

 「いや、エンジンブレーキを使うことが多いんですよ。特に高速を走る時はほとんどブレーキを使わずに、エンジンブレーキで前を行く車との車間を調整します。もちろん、必要な時はブレーキを踏みますけどね。それでブレーキシューの減りが少ないんじゃないですかね」

でも、私のブレーキシューの減り方が異様に少ないとすると、世の中はブレーキ大好きドライバーばかりということになる。それって、燃費にも悪いんですけどねえ。

年末だった。正月を横浜の自宅で過ごすべく、洗濯物を満載したアコードは横浜町田インターに向けてひた走っていた。速度計の針は120kmを超していた。道は混んでおらず、快晴。快適なドライブだった。
追い越し車線を走って豊川を過ぎた。遠くの路上に何かが見えた。見る見る近づいた。それが角材だと分かった時は遅かった。ブレーキを踏み、左のサイドミラーを確認してハンドルを左に切ったが、我がアコードの右前輪が角材に乗り上げた。
大きな衝撃があった。続いて車が傾き、ハンドルの切れがおかしくなった。マジかよ! どうやらタイヤがバーストしたらしい。
速度を落とし、車を左に寄せた。だが、ここで停車するのは危険だ。停車してもできることは何もない。低速で走り続けた。トホホ。高速道路を時速20kmで走るのは情けない。

もうなくなったが、当時は豊川インターと三ヶ日インターの間に、検問所があった。そこを過ぎ、検問所の事務所前で車を止めた。
降りてタイヤを見る。あ、こりゃいかん。右前のタイヤに大きな裂け目が入り、ぺしゃんこだ。おまけに、ホイールも歪んでる。
まず、検問所の職員に、路上に角材が落ちていることを知らせた。こんな目に遭うのは私1人でたくさんだ。

次に、私の車を走れる状態にしなければならない。トランクからジャッキと工具と補助輪を取り出した。スペアタイヤは緊急用の小さなヤツである。
さあ、そこで考えた。使えなくなったのは右の前輪である。そのタイヤをそのままこの補助輪と取り替えていいものか?
それは不安だ。アコードは前輪駆動車である。そして前輪は、ハンドルの動きを受け止めて方向を変える役割を果たす。その一方が小さなスペアタイヤでいいのか? 左右のバランスが取れないのではないか?

どうしても不安は消えず、私はスペアタイヤを後ろに着けることにした。まず後輪を1つ外し、そこに補助輪を着けた。次にバーストした右前輪を外し、後ろから持ってきたタイヤを取り付ける。2度手間だが、横浜まで安全に走るためには仕方がない。高速道路で突然タイヤがバーストしたにもかかわらず、怪我1つしなかったのがめっけものだと諦めるしかない。
私としては珍しく、最高速度100kmを遵守した。もちろん、順法精神のためではない。我が身の安全を守るためである。
ん? 道路交通法って、ドライバーの安全を守るためにあるんじゃなかったっけ?

横浜に着き、すぐにディーラーを訪ねた。年末の営業最終日だった。

「すいませんが、年明けまで待ってもらえませんか。ホイールの在庫があるかどうかも分かりませんし」

こんな営業マンが会社をダメにする。

「ということは、年末年始をスペアタイヤですごせってことかい?」

 「申し訳ないんですが……」

むかっ腹がたった。

 「年明けの3日には、またこの車で名古屋に帰らねばならないんだが、じゃあ2日に店を開けてくれるんだな?」

私の勢いに怖じ気づいたのか、営業マンは倉庫に向かった。

「1つだけありました」

あるのなら最初からそういえばいいのに。威嚇されて商売するの、あんたも嫌だろ? 俺もこのディーラーで2度と買うか、と思ったし。

そういえばアコード、高速道路でのパンクに妙に縁があった。2度目はスキーに行く途中である。
その日、我が家は妻だけを残し、私と子供3人で長野県への日帰りスキーを決行した。自宅を出たのは午前5時半頃だったろうか。いつもは揺すっても叩いても目を覚まさないガキどもも、スキーに行くとなると自分で起きてくる。

荷物を積み込み、首都高速を通って中央高速に乗った。ことが起きたのは、中央高速の料金所をでてすぐだった。突然、右後輪がガタガタいいはじめた。パンクである。また高速道路でパンクかよ。

まだ真っ暗である。とりあえず、車を左に寄せて止めた。降りてみてみる。タイヤはペシャンコだ。あーあ。交換しなきゃ走れない。だが、交換するといったって、どこで? ここしかない。高速道路の路肩でタイヤを交換するのである。

車の中で寝ていた長男を起こした。懐中電灯を持たせてアコードの10mほど後ろに立たせ、振り回させる。車は当然ハザードランプをつけっぱなしだ。これだけの安全確保策で、ここでタイヤを交換する。

ジャッキアップする私のすぐ後ろを、高速で車が通りすぎていく。
 パンクしたタイヤを外す私の背中を、高速で車が通りすぎていく。
 スペアタイヤを取り付ける私に、高速で通りすぎる車が起こす風が吹き付ける。

怖かった。生きた心地がしなかった。通り過ぎるドライバーのたった1人がハンドル操舵を間違っただけで、私は確実にはねとばされる。勢いがよければそのまま天国まで飛んでいくのである。当たり所が悪ければ、血の池地獄に落ちることだってある。残された子供たちはどうなるのか……。

スキーの帰りにカー用品店に寄り、パンクの修理を頼んだ。タイヤを見た店員はいった。

「ああ、こりゃあダメですね。酷く裂けてますよ」

見ると、タイヤの裂け目は5cmほどもあった。確かに、これじゃあ修理は無理だ。泣く泣く、新しいタイヤを買って付け替えた。

いかがであろう。あなたも数台の車を乗り継いでこられたかも知れない。しかし、たった1台の車でこれだけの不幸に見舞われたことがおありだろうか?
このころになると、私は、私のアコードを呪われた車、と呼びたくなった。
だが、呪われた車が本領を発揮するのは、これからのことである。

長男が大学に入った。F1のピットクルーになりたいと、工学部機械工学科に進んだ。すぐに運転免許を取った。
時間があれば、長男が運転する車の助手席に乗った。安全な運転の仕方を伝授するためである。
安全に車を運転するには、様々な事故を起こすに越したことはない。身をもって、事故とはどんな状況で起きるかを体験し、安全運転の勘所が身に付く。私は運送会社でのアルバイト時代、たくさん事故を起こした。私以上に安全運転指導員として優れている者はいない。

車を安全に運転するポイントの第1は、サイドミラーの見方を覚えることである。初心者は前を見ることに精一杯で、バックミラー、ましてやサイドミラーに目を向けるゆとりはない。だが、自分の車の左右に何がいるかを知らずして車を運転するのは極めて危険である。特に、車庫入れや、車庫から車を出す時にはぜひ励行しなければならない。
第2は、決して1点を凝視しないことである。ハンドルを持ったら、1点を見つめない。どこを見ているか分からないぼんやりした目をする。そうしないと、視野の片隅で起きることに気が付かない。子供が飛び出したり、自転車がふらついて車の前に出てきたり、といった危険を避けるにはぼんやりした目をするべきである。
自分の車が次にどうしたいのかを周りの車に知らせることも重要である。だから、ウインカーはできるだけ早めに出す。
見えないところに何があるかをイメージする想像力も大事である。この車の陰には人がいるかも知れない。ほかの車が止まっているかも知れない。脇道から人が飛び出してくるかも知れない。そんな想像力を持っていれば、何に注意して運転すれば安全かは自ずから知れるのである。
まあ、あの時代、私が数々の事故を起こしたのは、こうした知識がなかったからにほかならない。

と、一所懸命に教え込んだ。はずである。

長男は、私がいない時は自由にアコードを乗り回していた。サラリーマンである私に比べれば、大学生である長男の方が遙かに自由時間が多い。
しばらくして、異変に気が付いた。

「おい、左のフロントドアがへこんでるけど、どうした?」

 「いやあ、うちの車庫から出ようとしたらぶつけちゃってさ」

 「ぶつけちゃったら困るだろう。サイドミラーを見ろとあれほどいったではないか。アルバイトして修理するんだな」

 「ん? うーん」

1ヶ月立っても、ドアはへこんだままだった。

やがて、長男がいった。

「オヤジ、今週の土日、車使う?」

長男は長い間、私を「お父さん」と呼んだ。私がそう呼ばせた。我が人生を顧みての決断であった。

なにせ、私は子供のころ、両親をパパ、ママと呼んでいた。そう躾られた。 親としては、洒落てる、呼びやすい、など様々な理屈があっただろう。だが、躾られた子供はどうか。
幼いころは何も感じなかった。薄汚い格好をした貧乏人の小せがれが「パパ」「ママ」なんぞと口にすることに、周囲がどれほどの違和感を持っているかにも気が付かなかった。世の中、いや、我が家はそんなものだと思っていた。
困ったのは中学生ぐらいになり、物心が付いてからである。
うっすらと鼻の下にひげが生え、

「おい、わがも(我が生まれ故郷では、2人称)ちんぽに毛の生えてきたっとやろ」

と不良じみた上級生にからかわれ、同級生にほのかな恋心を持つ年頃になると、もういけない。「パパ」「ママ」なんて、恥ずかしくって口にできない。同級生に聞かれようものなら、穴があったら入りたくなる。なにしろ、私は九州男児なのである。それが毛唐の真似をして「パパ」「ママ」などと甘ったるい声を出せるか! わが日本には、もっと素晴らしい呼び方があるのだ!

自然、母親を呼ぶ時には「あんた」といいはじめた。父親には声をかけない。声をかける必要があっても呼びかけの言葉がないのである。
という背景があっての、我が長男へのしつけであった。

それが、大学生になったと思ったら、

「オヤジ」

と呼ぶ。けしからん!
といいたかったが、まあ、土日に車を使う予定はとりあえずない。

「使わないが」

というしかない。

「だったら貸してよ」

と長男はいった。

「何に使うんだ?」

当然の質問をした。

「友達とスキーに行くんだ」

長男は次の土曜、わがアコードの運転席に座ると、スキー場目指して出発した。その車に乗ったがボーイフレンドであったのか、ガールフレンドであったのか。私に知る術はない。

日曜日の夜、長男が戻ってきた。迎えに出ると、左の後部ドアがへこんでいる。

「これ、どうした?」

「駐車場から出ようとしたらぶつかって」

 「ぶつかったのではない。ぶつけたのだ。アルバイトして修理しろ。フロントドアも一緒な」

 「ん? うーん」

1ヶ月たっても、2枚のドアはへこんだままだった。

「おい、金がないのなら、せめてドアの内張を外して、へこんだ部分を押して元に戻せ。あれじゃ恥ずかしくって乗る気になれない。へこみを元に戻したら、同じ色の塗料を買ってきて目立たないように塗っておけ」

 「うん、分かった」

1ヶ月たっても、そのままだった。そして、運命の日が来た。

職場に妻から電話がかかってきたのは夕方4時頃だった。緊急時以外は電話はするなといってある。何があったのかと思って受話器を取った。

「お父さん、S(=長男)が事故ったんだって。警察から電話があって」

当時、長男はバイクで大学に通っていた。ヤツがバイクに乗り始めたのは高校時代である。私がある日、名古屋から戻ってくると、家の前に真新しいバイクが止めてあった。かなり大型である。

「おい、あれは誰のバイクだ?」

と私は聞いた。妻は当然のように答えた。

「Sのに決まってるでしょう」

長男がバイクを買うなんて、私はひと言も聞いていない。

「何で高校生がバイクを買う? お前が許したのか?」

かなり怒りながら問いただした。が、妻はいつもの如く、ピンぼけな答えを返してきた。

「いいの、いいの。わたし、お金はあげてないわよ。Sが自分でバイトをして買ったんだからいいでしょう」

おいおい、これってそんな問題か?
そもそも、高校生がバイクを買うためにバイトをするなんて言語道断である。そんな暇があれば、学問に勤(いそ)しむべきではないか。それでなくても受験競争は厳しいのである。アルバイトの時間も、バイクを乗り回す時間も、まともな高校生にあるはずはない。
それに、車を運転する立場からいえば、バイクとは極めて危険な乗り物である。まかり間違って事故でも起こしたら、命はないぞ、あの乗り物。

と私はわめいた。妻には全く通用しなかった。我が妻の常識を疑った。

長男にも同じことを言った。バイクは直ちに売り払え。が、長男は頑固だった。きっと、妻に似た性格を持って生まれたのであろう。

「勉強はするよ。でも、バイクは捨てない」

ヤツはそれを実行した。ただ、実行したのは半分だけである。そう、バイクは捨てなかった。勉強は、

「いやあ、S君は頭はいいんだけど、ちょっと努力が……」

と高校の教師にいわれ続けた、と妻から聞いている。

という歴史があっての、妻からの職場への電話だった。

「どんな事故なんだ?」

 「なんか、大学を出てバイクで走ってたら、脇道から突然車が出てきて、それにぶつかったらしいの。それでSは飛ばされて道路に投げ出されたんだって。病院に運ばれたっていうんだけど」

受話器から流れてくる声を聞きながら、私は長男を失ったことを覚悟した。バイクが車にぶつかる。運転していた長男が投げ出される。路上に激しくたたきつけられる。ヘルメットはかぶっていたろうが、人間の体はあまり頑丈ではない。だから、バイクには乗るなといったのに。
長男が死んだ。

なのに、私は奇妙なほどに冷静だった。

「事故の現場はどこだ? 所轄の警察は?」

必要なことを聞き出すと、私は会社を飛び出した。タクシーに乗って警察署に向かう。好きな場所ではないが、そんなことはいっていられない。

「長男が死んだ」

私の頭の中で同じ言葉がこだました。何でこんなに早く。親より先に死ぬとは。だからバイクはダメだといったじゃないか。私に相談もなくバイクを許した妻は許し難い。どう責任を取らせる?
そんなことばかり脳裏に浮かんだ。パニックには陥っていなかったと思う。だが、ほかのことは考えられなかった。

「息子はどうなんです?」

警察署に着いて、担当の警察官が応対してくれた。その顔を見るなり、私は聞いた。それしか聞きたいことはなかった。覚悟はできていると思う。本当かどうか分からないが。でも、できれば生きていて欲しい。いや、生きていてくれなければ困る……。

「あー、多分大丈夫でしょう」

のんびりした口調で警察官が答えた。

「本当ですか?」

 「ええ、病院に運ばれても意識ははっきりしていたと聞いてますから」

緊張が一気に抜けた。長男は生きていてくれた。よかった。

「でも、当たり所がよかったんですよ。車の前輪のタイヤホイールの後ろの方にぶつかったんですね。ご存じのように、あの部分は弱いですから、衝撃を空襲してくれた。それに、前に何もありませんから、体が投げ出されて路上に落ちた。これもよかった。フロントのドアにぶつかっていたら、体は車に激突してます。そうしたら、多分無事ではなかったでしょう。コンマ何秒が、あなたの息子さんを救ったんだと思いますよ」

それから事故の概要を聞いた。相手の車が飛び出してきたのが原因で、長男には責任はない。だた、事故が起きた以上、長男にも安全運転義務違反があって、過失割合はゼロではない。相手のドライバーは若い女性で、パニックを起こしている……。

長男の入院先を聞き、その足で回った。

廊下で待っていると、ストレッチャーで長男が運ばれてきた。私の顔を見るとニヤリとした。ああ、こいつ、生きてる!
あとはどうでもよくなった。

病室まで付き添った。医師や看護師がいなくなって、長男にいった。

「これでバイクとの付き合いは終わりだな」

長男は、

 「ああ」

といった。

それからしばらくしてのことである。とりあえずの入院先から虎ノ門病院に転院し、左腕の複雑骨折の治療をしていたころだったろうか。長男が私に話があるという。聞いた。

 「俺さあ、バイトしてバイクのローン払ってたんだよね。それで、同じぐらいの金は出せるから、車、買い換えないか?」

嬉しい申し出だった。長男がバイクを諦めたのである。親からしてみれば、バイクより車に乗って欲しい。相対的には車の方が安全である。
それに、我が家のアコードは5年目を迎え、数々の問題を抱えていた。左のドアが2枚へこんでいるなんて、まだいい方である。エンジンの調子がおかしくなっていたのだ。
出足が悪い。加速が悪い。ガソリン1リットルあたりの走行距離が5kmを切る。
ディーラーに持ち込んだ。

 「ということなんだけど、見てくれる?」

見ました、という担当者はいった。

「原因が分かりません。だから、修理のしようもありません」

修理不能? ああ、私が尊敬する本多宗一郎氏が作った会社の車って、こんなものか。嫌気がさした。長男の提案があったのはそういう時期である。

「いいだろう。ただし、条件がある。お前が大学生の間は、その車の優先使用権は俺にある。お前が大学を卒業したら、完全にお前の車になる。だから、車の選択はお前に任せる。その条件でよかったら、話に乗る」

こうして、アコードの次の車選びを、長男の選択肢に委ねた。