2014
03.16

2014年3月16日 傷

らかす日誌

というわけで、今日は車を洗った。前言を撤回しないということは、男の矜持である。だからして、

俺は浮気はしない
たぶんしないと思う
しないんじゃないか
覚悟だけはしておけ

などという、フワフワした歌を歌うオヤジは、どうにも好きになれぬ。同じ九州出身らしいが、どうして

「俺は浮気をする。必ずする。男の甲斐性である。覚悟しておけ」

といえないのであろうか。

にしても、だ。
もう数十年前になるが、後輩の結婚式に名古屋で出た。
アトラクションで、新郎、つまり我が後輩の母親殿と姉貴殿が歌を歌われた。それがこの歌、「関白宣言」であった。
このよき日、晴れて新婦となった彼女は、隣に立つ、これから夫になる男の母親と姉様に、

俺は浮気はしない
たぶんしないと思う
しないんじゃないか
覚悟だけはしておけ

と聞かされた。心中、いかがなものであったろうか。同情を禁じ得ない、と表現するもよし。その程度の諧謔は笑い飛ばせ、というもよし。
にしては、いまだにくっついているようだから、まあ、その程度のものかも知れないが。

いや、話がすっかりそれてしまった。本筋にに戻す。

洗うと、様々な傷が目に入る。昨日書いたボンネットの傷は、コンパウンドでこすったが消えなかった。かなり深いひっかき傷だったから、仕方あるまい。

左の後輪の上あたりに、何か柔らかいものを強くこすりつけたような傷があった。これは、車を運転していてできる傷ではない。駐車中に子供が悪戯したか、あるいは隣に止めていた車の持ち主が、荷物を押しつけたか。幅3cmぐらいの「く」の字の擦り傷である。
祈るような気持ちでコンパウンドを使った。見事に消えた。余り深いものではなかったらしい。

右の後部ドアには、2本の筋が入っている。
左前部のスカートには、赤い下地が露出した傷も。

「俺、こんなところをこすった記憶ないぞ」

と思いながらも、それほど気にならないのは、車が古くなったからかか。新車なら気になって仕方がないところだろう。
車が古くなるのも、悪いことばかりではない。なにしろ、この車には少なくともあと5年乗るのである。小さな傷を気にしてはいけない。

洗車は1時間足らずで終わった。コーティングしてあるからワックスなどはいらない。水洗いして、水気を拭き取るだけである。それで新車同様とまではいわないが、見違えるほど綺麗になる。まあ、気分が向けば洗車するにこしたことはない。

ということで、本日のレポートは終わりなのだが、ちょいと短すぎるか、という気もする。
仕方ない。あれを書くか。


桐生のいじめ自殺に判決が出た。
当時小学校6年生だった女の子が学校でいじめにあった。その子が自殺した。そんな事件で、両親が市と県に3200万円の損害賠償を求めていた。いじめが自殺の原因か否かで、原告と被告の主張が対立していた。
前橋地裁原道子裁判長は、県と市に450万円の支払いを命じた。

のであるが。
これ、どう思います? 

私見では、いじめは極めて軽微である。「臭い」「キモイ」などの言悪口に加え、たった8日間、給食時に仲間はずれにした。それだけである。
それだけのことと、この女の子が自殺したことに、私は会ったことも見たこともない原という、多分おばちゃんは450万円分の関連があると判断した。であれば、私なんぞ1億円ぐらいいただける立場にあると思うのだが、まあ、自分の財布から出る金ではないから、原のおばちゃんも気楽といえば気楽なのだろう。
だが、原のおばちゃんが気楽に判断したことがどのような結果を招くのか。

学校、教師としては我慢ならない判断のはずである。
このおばちゃん、死んだ女の子に自殺をほのめかす言動はなかったから、学校は自殺を予見することはできなかったともいう。つまり、軽微ないじめを見過ごしてしまったことに対して、450万円払えというわけだ。これ、学校の先生たち、納得できますか?

納得する先生は、いらっしゃったとしてもごく少数であろう。
だが、である。納得できなくても、判決は出た。この事件、別に暴力が振るわれたわけではない。執拗に金がせびられたわけでもない。いくつかの言葉と、あの子とはご飯を一緒には食べたくない、という行動があっただけである。そんな軽微ないじめを見逃し、虐めらていたという子が自殺した場合、いじめと自殺の間に強い因果関係がなくても責任が問われる。
これから先生たちは、とにかくいじめを根絶するしかない。だが、できるか?

子供とはまだ人間になりきらぬ卵である。社会で様々な人が一緒に生きなければならないからできたルールにも不慣れで、心に思ったことをストレートに言葉や行動で表現する。直截さは、時に残酷さと同義になる。
大人になれば

「それはちょっとやばいかも」

という、いまの社会における常識が構築されるが、子供にはそんなものはない。
だから、子供を預かる学校の先生たちは、すべての子供のすべての言動知らねばならなくなる。できるか、そんなこと。

できなくても、やらねば責任を問われかねないのだ。ではどうするか。

アイデア1
校内に隙間なく監視カメラを設置し、子供の行動を逐一見張る。集音マイクがあればなおいい。そして、子供が下校したあと、映像、音声を分析していじめの芽を見つける。
これをを実行した場合、どうしても労働過重になる。だって、子供が8時間学校にいるとすると、再生される映像は1カ所で8時間分である。校内隙間なくカメラを設置するのだから、再生する映像は30箇所分、40カ所分と膨大になる。そんなもの、見ることができると考えること自体、おかしい。それとも、分析の専門家を各学校で雇用するか? 失業対策にもなるよなあ。

アイデア2
監視カメラがだめなら、スパイを作るしかない。いじめを見たら、知ったら、すぐに先生にいいなさい。そうしてくれる子はいい子です、と、学校が総力を挙げて仲間の裏切り者を育る。

どちらもいびつである。あなたたちは、子供をそんな環境に置きたいか? 私はまっぴら御免である。

ということを、原裁判長はやれとおっしゃっている。
社会は、様々な要因が寄り集まってできている、ということをご存じない方である。目先の正義感に酔って、その正義感が権力によって裏付けられたときに引き起こされる結果に思いをいたさないぼんくらというしかない。
まったくはた迷惑な裁判官である。

かつて書いたことがあるが、もう一度書く。
人の世からいじめはなくせない。学校からいじめがなくせるというのは幻想である。もしいじめが起きてないとしたら、アイデア1か、アイデア2かは知らぬが、何らかの手立てでいじめが封印されているに過ぎない。子供たちの心の中には沢山いじめのネタがあるのに、それが表に出ることを封じられている、極めて不健康な状態である。

努力をすれば、心にいじめの種を持たぬ心優しく、清く正しい子供を育てることもできるかも知れない。だが、すべての子供を善導するのは不可能である。だから、いつになってもいじめはある。我々大人の間でもいじめがあるのが何よりの証左である。
だとすれば、いじめにあっても死なない子供を育てるのが教育ではないのか。「醜いアヒルの子」は、虐められても死ぬことがなかったら、美しい白鳥として飛び立てたのだ。そんな子供を育てるのが教育ではないのか。

友だちを密告する子供は、醜いアヒルのまま成長する。
醜いアヒルの大人が大道を闊歩する姿は見たくない。
が、この判決は、醜いアヒルの大人を教育現場で大量生産することにつながりかねない危うさを孕んでいる。

裁判官、世間を知りすぎてもらうのもいかがかと思うが、いま少しは世間を知り、人の世を知って、己が角判決のもたらすものに思いを馳せる程度の知性は持っていただきたいと思う。
それは願いすぎだろうか?

ふっ。疲れた。