2019
05.03

新聞はマッチポンプを本能とする言論機関なのか?

らかす日誌

マッチポンプとは、自分で火を着け、燃え上がった火を自分で消しに回ることをいう。自作自演というか、論調が首尾一貫しないというか。とにかく、そんな意味である。

以下の話は、ひょっとしたら私の誤解に基づくものかも知れない。いま私は記憶に基づいて論を立てようとしており、私の記憶力は甚だ頼りにならないからである。

朝日新聞って、2020年の東京五輪について、批判的な記事を書いたことがあったっけ?
私の記憶では、ない。
いや、ひょっとしたら多少の批判記事はあったのかもしれない(このあたりが私の記憶のあやふやさである)が、私の記憶にはとどまっていない。2020年のオリンピック開催地が東京に決まったことを、さも天下の一大事の如く取り上げたことは記憶にある。オリンピックが再び東京に来る喜び、というか、喜ぶ人々の声を集めた記事も読んだ気がする。ひょっとしたら、そのなかに

「東京五輪なんて要らない」

という談話がいくつか混じっていたかも知れないが、いまに残る印象は

「東京オリンピック様様!!」

という記事のオンパレードであった。それが私の記憶である。以下は、その記憶に基づく。

今朝の新聞を開いて我が目を疑った。

「近づく五輪 やりきれぬ黒塗り」

1面から社会面に続く記事である。何でも、オリンピックを前に言論・表現の統制が進んでいるのだという。
ある映像作家は、女性の身体ががバラバラになって飛び散る作品を作ったら、

「パラリンピックを控え、障害者への配慮に欠ける」

と、作品の一部を主催者にカットされた。

元ラグビー日本代表は、招致に絡む金銭疑惑、住民や野宿者を追い立てて建設されている新国立競技場を問題にし、

「そこまでしてする大会なのか」

とネットのコラムで発信した。しかし、覚悟していたスポーツ関係者からはほとんど反発がなく、無視に近い扱いをされている。

オリンピック反対の活動を続けているアーティストは、招かれた講演会の主催者から、自分のプロフィールに書いた「反オリンピック」という一文を削ったらどうかと提案された。

という内容である。
まあ、オリンピック、パラリンピックを前に、何という気持ち悪い世の中ができつつあることか、といいたいのだろう。確かに、一つの方向の言論・表現しか認めない社会は息苦しい。だから、この記事が主張したいことには賛同する。

しかし、記事が見逃していることがある。オリンピック、パラリンピックに弓を引く言論・表現がしにくい空気を誰が創り出したのか、ということである。
そんな空気を創り出したのは、オリンピック、パラリンピック礼賛の記事、番組を垂れ流し続けてきたマスメディアではないのか? 新聞、テレビにいらっしゃるみなさん、東京にオリンピックを招こうという動きが出始めて以降、オリンピック、パラリンピックを正面から捉えて検証する記事、番組をあなたは書きましたか? 創りましたか?
あるいは、公平な報道を心がけ、オリンピック賛成派と反対派の主張を50:50の比率で取り上げましたか?

どの新聞を見ても、どのチャンネルに合わせても、オリンピック、パラリンピックは日本国民がこぞって歓迎している、日本国民の総力を挙げて素晴らしい大会にしようではないか、と書き続け、訴え続けたのはあなたたちではなかったか?
そのようなニュース、番組の洪水の中で、

「それは違うんじゃないの?」

というほどの精神的強さを持つ人は数少ないはずだ。つまり、言論・表現を統制する基盤は、朝日新聞を含むスメディアが競うように作り上げてきたのではなかったか。

このようなニュース、報道のあり方を

マッチポンプ

という。紙面で同じ主張を何度も繰り返し、世論調査と称するものを行って

「ほら、やっぱり世論は我が社の主張が正しいといっている」

というニュースを書くのに似た同じ手法である。

何度をも書いてきたが、いまのオリンピックは問題だらけである。そのオリンピックを東京で開くのはさらに問題である。
当初からそう主張してきたのなら、この記事は素直に読める。「最初から」がなくて突然姿を現したこの記事は、私には

マッチポンプ

としか読めないのである。

皆様はどのようにお読みになっただろうか?