2020
11.30

菅内閣は社会主義を信奉する政権か?

らかす日誌

携帯電話料金の引き下げ、という菅内閣の政策に違和感を感じ続けている。
いや、携帯電話の使用料が安くなるのはありがたい。

「国際的にも最も高い部類の価格だ」

といわれれば、日本国民であることで何となく損をしているような気にもなる。だからだろう。私だってそう思うくらいだから、この政策が国民の高い支持を得ていると聞くのも得心がいく。

だが、私の中にしつこく居着くこの違和感。いったい何だろう?
だからといって考え込む私ではないが、喉に刺さった魚の骨のように存在感を主張し続けていた。

「あ、これかな?」

と思いついたのはつい最近のことである。

民間会社の経営に国が嘴を突っ込む。それも、商品の価格にまで口を出す。それって、資本主義経済のもとで許されることなの? 資本主義の基本を踏みにじる政策じゃないの?

これがどうやら喉に刺さった骨の正体らしい。

といっても、私が資本主義というシステムを支持しているわけではない。若い頃は貧困の撲滅、万人の平等を謳う社会主義、共産主義という国家制度に理想を抱いたこともある。齢を重ねるにつれて旧ソ連や共産主義中国、いまでいえば北朝鮮の実態を知るにつれ、

「能力に応じて働き、必要に応じて消費する完全平等社会という理想を掲げる社会主義も共産主義も、結局はあんなにしかならないのか?」

という失望を感じているのがいまの私である。失望は失望として、だからもう一つのシステムである資本主義を素晴らしいシステムだと褒めそやす気になれないのは、資本主義がふんだんに創り出す富の格差、不平等に憤りを感じるからである。

だが、私がどう考えようと、いまの日本は経済システムとして資本主義を採用している。そのルールの下で社会が動いている。もちろん、純粋な資本主義などというものはどこにも存在せず、資本主義が産み出す負の部分を何とかしようと社会福祉政策を組み合わせた修正資本主義が世界のほとんどの国が採用しているシステムである。

だから、資本主義は政府が様々な修正を加える、つまり資本主義のゲームに手を突っ込まないと弱肉強食の修羅場と化すとは分かっている。それでも、思ってしまうのである。政府がここまで個別企業の経営に口を出すのは、資本主義の基本原理に適合するのか?

資本主義とはゲームの基本ルールを政府が決め、その枠内であれば企業の自由な経営を認めるシステムであるはずだ。どのような経営方針を採用するのかは各社の自由であり、だからそれぞれの商品の価格は企業の自由権に属することである。おかしな価格の付け方や価格操作をした場合は、独占禁止法などっで取り締まる。それが資本主義というゲームのルールである、と私は理解している。

いまの携帯電話の料金は高すぎる。引き下げよ。その引き下げ幅は小さすぎる。もっと下げよ。これは政府による明確な価格操作である。これって、資本主義か?

無論、資本主義下の政府も経済に、企業の経営に手を加えることはあり得る。各種のオペレーションを通じた市場操作は恒常的に各国政府がやっているし、安倍内閣は政策的にインフレーションを引き起こそうとした。政府も市場のプレーヤーの一員であるという立場で認められていることである。

しかし、商品価格まで政府が操作する? それって、まるで携帯電話会社は国営企業ではないか? 一つの国の経済を運営する際に、ところによって違ったルールを適用するのはありなのか?

日本は戦後、割と長い間、

「もっとも成功した社会主義国」

といわれてきた。通産省(当時)がリーダーとなり、各企業が素直に従ってきたから戦後の荒廃から短時間のうちに立ち上がり、驚異の高度成長を続けて経済大国になった。日本経済の頭脳となった通産省は、

ノートリアス・ミティ(悪名高き通産省)

と呼ばれた。
だがこの時も、各企業の商品の末端価格までは通産省といえどもは指示しなかったと記憶する。

旧陸軍を皇道派と2分した派閥である統制派は、国家経済を国の指導の下に置こうとした。いずれは日本の10倍の経済力を持つアメリカとの戦争が避けられないと考えていた彼らは、アメリカと闘うにはアメリカに匹敵する経済力を持つ必要があるとの思いを抱いていた。だから、早急に日本経済を成長させねばならない。その時に参考にしたのが、当時急速な経済成長を遂げていると言われた旧ソ連の経済政策だった。そうか、経済を急成長させるには国家による計画と指導が最も効率的なのか。彼らはそう考え、経済の国家統制を進めた。国家総動員法はその象徴である。

と見てくると、日本は社会主義的な経済運営をした過去の経験がある。菅内閣は温故知新を心に刻み、いま、部分的に国家による計画経済を導入しようとしているのか?

政府が民間の経済活動に関心を持つのは当たり前である。

高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり

新古今集に収録されたこの歌は、仁徳天皇の歌として伝わる。為政者とは民のかまど、つまり民間の経済活動に常に関心を持ち、賑わっていればニコニコし、煙が立っていなければどのような手を打てば再び煙が上がるのかを考え、手を打つものである。

しかし、いくら天皇でもすべての家に薪を運び、火を着けてやることは不可能である。民が自力で薪を集め、食料を生産し、足りないものを買い求めて楽しく暮らすことができる経済システムを構築するのが上に立つものの仕事なのである。

携帯電話料金が安くなるのはありがたい。しかし、政府が私企業の経営、価格決定にまで手を突っ込むのは、すべての家に薪を運び込んで火をp着けて回るのに似る。それは、いくら何でも行き過ぎなのではないか? 角を矯めれば牛を殺すように、国民の喝采を受けて企業や経済システムを崩壊させるのではないか?

政府がやるべきことは、競争を促すシステムを構築することである。それが資本主義下における政府の役割の限度だと思う。競争条件下に置かれた企業は、生き残りをかけて必死で知恵を絞り出し、価格を下げながら利益を確保する道を探る。

「安くしないと報復するからな」

という政府の脅しに屈して料金引き下げに追い込まれれば、残るのは国への恨みしかない。そんな条件のもとではよい智恵など出ないというのが、国鉄や郵便を民営化してきた自民党政権の基本政策ではなかったのか?

菅首相は資本主義の枠内で官民の関係をより良くしようとした諸先輩と違い、ひょっとして、イデオロギーでは対立しているはずの社会主義政策がお好きなのかな?

そんなことを考えてしまった私であった。