2023
06.06

私と朝日新聞 入社試験の5 合格通知が思わぬ事態を招いた。

らかす日誌

朝日新聞社から合格通知が届いたのは7月20日過ぎだった。2次試験で手応えを感じていたとはいえ、

「これで俺は新聞記者だ!」

と心から嬉しかった。

2回目の受験の際、朝日新聞から新入社員募集要項を取り寄せていた。それによると、

基本給与月額6万3000円(前年度実績)

とあった。

「給料の安い会社だなあ」

と思っていた西日本鉄道でも、前年実績は5万9000円、私が入社した1974年度は7万4000円であった。入社から60日は試用期間として給与は6がけ(ベアが決まっていなかったので、59000×0.6=35400円)だったことはさておくとして、朝日新聞は高給で知らていたのではなかったか?

「それなのに、公務員並みの給与である西鉄との差はわずか4000円? 仕事はずっと大変なはずなのに、たいしたことないなあ。ま、好きな仕事をするんだから、給料に不満は唱えまい」

1年越しの念願が叶ったのだ。金のことは気にならなかった。好きな仕事ができればいい。なーに、貧乏暮らしには子どもの頃から慣れっこだ。少ないかもしれないが毎月決まった金が入ってくるのだから、これから生まれてくる私の子どもに、私のような惨めさは感じさせずに済むはずだ。

済まないことがあった。私は西鉄の社員、人事課員である。朝日新聞の記者になるには、西鉄を退職しなければならない。
しかし、職場の先輩方にはお世話になった。飯を、酒をご馳走になり、仕事を教えていただき、思いあまって口にしたfake informationを疑いもせずに私を朝日新聞の2次試験に送り出していただいた。私にとって合格通知は朗報だが、あの人たちにとっては?

「辞めさせて下さい」

その一言を伝えるのは後ろ足で砂をかけるようなものではないか? 気が重い。数日、ウジウジした。

しかし、いずれにしても私は朝日新聞に入る。だから入社試験を受けたのだ。恐らく採用は翌年の春だろうが、西鉄を辞めるのなら早い方がいい。いたずらに翌春まで素知らぬ顔をして仕事をするのは、あの人たちを裏切ることになる。

数日後、私は課長席の前に立った。

「課長、申しわけありませんが、今月(7月)いっぱいで辞めさせて下さい」

とうとう口を切った。課長は驚いた顔をした。

「えっ、どうしたんだ? どうして辞めなくちゃいけないんだ?」

とおっしゃった。ここは丁寧に説明しなければならない。

「昨年、朝日新聞を受験して失敗したことはお話ししたことがあると思います。そんないきさつで西鉄に入ったわけですが、新聞記者になりたいという思いがどうしても消えず、実は今年、こっそり受験しました。これでダメだったら西鉄に骨を埋めようと思っていました。ところが、どういう風の吹き回しか、通ってしまったのです。合格通知を見て、正直迷いました。このまま西鉄に勤めるか、それとも初志を貫徹して朝日新聞を選ぶか。数日考えたのですが、やっぱり記者になりたいという思いが消せません。であれば、いつまでもこちらでお世話になるわけには生きません。辞めさせていただきたいのです」

お気付きのように、一部が混じっている。相手を傷つけないための嘘である。西鉄の皆様、ご容赦願いたい。

いかにも失礼な話である。私は

「何を?! バカヤロー」

という罵声を浴びることを覚悟していた。ところが、なのだ。課長はこうおっしゃったのだ。

「えっ、朝日新聞? 大道君、それはよかった。おめでとう!

おめでとう? それ、私に向かっていう言葉ですか?
課長の話は続いた。

「それはおめでたい。うん、送別会、壮行会を開かないといけないな。君、夜はあいてる?」

ちょっと、ちょっと! こんな失礼な私のために壮行会ですって?

2人の話を聞いていた課員たちも口々に

「それは凄い!」

「よかったねー」

「送別会、送別会!」

と私を褒めそやした。

「私の甥っ子に、地元の西日本新聞の記者がいるんだけど、記者って格好いいわよね。話すことも他の人とは全く違っててね。それが朝日新聞? 大道さん、私も嬉しいわ」

といってくれた中年の女性職員もいた。
みんなから石を持って追い払われるに違いないと思い込んでいた私は、とんでもない間違いを犯していた。
どこまで人がいいんだ? 西鉄の皆さん!!

本当に送別会が開かれた。場所は博多・中洲の料亭である。
課長が送別の辞を述べてくれた。

「私の見るところ、大道君は朝日新聞でも立派にやっていける人だと思います。ただ、老婆心ながら、一つだけ忠告しておきたい。君は自分のことを『僕』といいますね。だが、君はもう立派な社会人だし、これからは朝日新聞の記者でもある。自分のことは『私』というようにした方が評価が高まると思います」

私の裏切りを本当に許していただたのかどうかはわからない。だが、涙が出そうになるほどありがたい挨拶だった。他のことは総て忘れてしまった送別会だが、この課長の言葉だけは何故かいまだに残っている。
残っているのだが、実践した記憶があまりないのが私だ。改まった席では「私」だが、気安い仲になると「俺」を多用してきたように思う。
済みません、課長!

博多駅前にある朝日新聞福岡総局に挨拶に出向いた。飛永さんに紹介してもらった方がしばらく前までここでデスク(=部次長。兵隊が書いてきた原稿を商品となる記事に仕上げるのが主な仕事)をしていた。合格通知をもらったころはすでに松山支局長になって福岡を離れていたが、受験準備をしていた私に

「若いヤツの話を聞いた方が役に立つだろう」

と紹介してくれた人がいたのだ。Aさんという。
受験準備中の私に、Aさんは

「君、どうしても朝日に入りたいんか? 何学部だっけ? 法学部か。そやったら司法試験に通って弁護士の資格を持って応募すりゃ絶対だよ。この会社は法務部が充実してないから、喜んで雇ってくれると思うけどなあ」

などと役に立つのか立たないのか分からないアドバイスをくれた人である。
こんな話もしていた。

「俺な、これからどの部署に行きたいんか聞かれたんで『週刊朝日』と答えたんや。新聞よりあっちの方が面白そうやしな。そんな話を同期のヤツにしたら、ホッとした顔をするやんか。なんでやろ、思うてたんやが、ある人に聞いたら、週刊朝日に行くと社内では出世競争から脱落するんだと。そうか、あの同期のヤツは俺が出世競争からドロップアウトした、ライバルが一人減った! いうで喜んどったんやわ。入った時は記者になりとうて入ったはずなんになあ。朝日新聞も情けないヤツの集まりやで

そのAさんに合格したことを知らせに行ったのである。

「ほうか、そらよかったな! よし、今晩暇か? それやったら合格祝いしてやるわ」

その足で中州に出た。何時になっても話は尽きない。日付変更線が迫った頃、数人が合流した。みな福岡総局の記者だという。Aさんの仲間だ。

「よし、もう1軒行こう!」

場所を変えて延々と話した。それも、馬鹿話だけではない。

「お前はちょっと、太宰治を評価しすぎてるんとちゃうか?」

「太宰を評価して何が悪いんや? ちゃんと論理を展開してみろよ!」

「おお、分かった。そんならいうが、そもそも太宰の文学は……」

夜中の1時、2時まで酒を飲み、仕事の話しはほぼなし。愚痴は一言もない。青臭い文学論を熱意を込めて闘わせる男たち。

私は、本当にいい会社に入ることになった、と酒が少し回り出した頭でしみじみ思った。