09.29
とことん合理主義 – 桝谷英哉さんと私 第6回 :たこ焼き先生 III
たこ焼き先生も万能ではなかった。
「オーディオアンプを設計するには、交流理論が必要なことが判りましたんや。これは、たこ焼き先生も余り詳しくなかった。しょうがないですわ。でも、そうなると、自分で勉強せなあきません。ま、乗りかかった船や。勉強せざるを得なくなったんですわ」
商社への勤務を続けながら、交流理論を勉強する。学校に通う時間など取りようがない。手段はひとつ。通信教育である。
桝谷さんは、東京電気通信大学の通信講座を受講する。
経験された方はお判りだろうが、通信講座というのは、なかなか成果が上がりにくいものである。
何より、一人孤独に勉強を続けるのが難しい。
学校に出かけるのであれば、級友と励まし合ったり、判らないところを教えあったりできる。それでも判らなければ、先生に聞きに行けば問題が解決する。だから、学習が先に進みやすい。
通信講座では、仲間がいない。先生もいない。テキストを読んで分からない点を、即座に解決する手段がない。よほど強い信念がなければ、途中で挫折するのは目に見えている。
(余談)
「おい、今日の英語の試験だけどな、勉強する暇がなかったんだ。カンニングさせてくれ」
確か大学1年の期末試験、クラスメートから突然声をかけられた。試験が始まるまで、もう5分ほどしかない。
「何じゃお前は。なんで俺がお前の手伝いをせんとでけんとや!」
「頼むわ。助けてくれや!」
こんな次第で、カンニングの手伝いをすることになった。
彼は私の左隣に席を取った。1時間ほどたって、私は問題の解答をすべて書き終えた。肘で合図をすると、彼は試験用紙をサッと取り換えた。見事なものである。私の目の前には、名前を書く欄を除けばほとんど空白の試験用紙がやってきた。
「いくら試験勉強をしなかったからといって、これはひどすぎる。こいつ、バカじゃなかろうか? バカに違いない! こいつはバカだ!!」
そんなことを考えながら、15分ほど過ごした。もういいだろうと思い、また合図をして試験用紙を取り換え、私は自分の試験用紙を提出して教室を出た。
17分後、彼が教室を出てきた。
「お前、ひどいじゃないか!」
が、彼の第一声である。悪事の手伝いをさせられて、難詰されるいわれはない。
「何いってんだ。俺の書いた解答を、お前が覚えられるぐらいの時間、じっくりと見ただろう。礼を言われることはあっても、文句を言われる筋合いはないわ。バカたれ!」
「いや、それはそうなんだけどさ、どうして俺の試験用紙に答を書き込んでくれなかったんだよ。あんなもん、全部覚えられると思うのか?」
それでも、彼は赤点だけは免れたようである。
大学を卒業すると、彼は自動車メーカーに就職していった。
学校に通えば、成果が上がりやすいというのは、あくまでも一般論である。
だが、桝谷さんである。挫折とは無縁である。
強すぎるほどの信念があった。
それどころか、商社の仕事を活用した。仕事で海外に出るたびに、音響、電気、電子工学についての専門書を、2冊、3冊と買い集めてきた。
「こういう本は、英語の方がずっとわかりやすく書いてありまんねん。言葉からしてそうや。イコライザーといったり、等価回路というから、『これはわからん』と思ってしまいますのや。Equalizeというのは、同じにするという意味でっしゃろ。それに(e)rがつくから、元の音と同じにするものだということがすぐに判るやありまへんか」
(余談)
コンピューターやコンピューターソフトの使い方も、英語で読むと非常にわかりやすいと聞いた。
私の場合は、理解しやすい英語での解説にアクセスするための基礎教養、つまり英語力に問題があると自覚しているため、相変わらず分かりにくい日本語のお世話になっておる。
それにしても、日本人の自国語駆使能力は、英語国民の自国語駆使能力に劣っているのかな?
(余談の余談)
私も米国のサン・ディエゴに行ったとき、本を買った。ビートルズの写真集、ジョン・レノンの伝記、それにあと2,3冊。
ホテルに戻り、買った本をロビーで眺めていると、ボーイが寄ってきた。寄ってきて、
「お前はジョン・レノンが好きなのか?」
と聞いてくる。
日本語でこう書くと、
「客を客とも思わない生意気なボーイだ」
ということになるが、英語で
“Hi!, do you like John Lennon?”
と書くと、失礼な感じがしない。むしろ、人なつっこいいい人という感じがする。不思議なものである。
それを切っ掛けに、私のおぼつかない英語で雑談をしているうちに、
「お前は、ジョンの歌を歌えるか?」
ときた。
「いや、その、歌えないことはないが……」
「では、今日の夜、このホテルのバーで歌え」
「え、でもここにはカラオケはないだろう」
「大丈夫である。私はピアノの演奏ができる。私が伴奏する」
「でも……」
「歌えと言ったら、歌え!」
「はい」
大変なことになった。
歌わされる曲は、ジョンの名曲、“Imagine”である。
ちょっと待てよ、歌うには歌詞がいるぞ。覚えているかなあ…… ?
それから部屋に戻って2時間あまり、四苦八苦してノートに歌詞を書き出した。
その夜。
バーには、当然10数人の客がいた。そこで歌った。みんな拍手してくれた。アンコールを求められ、“Love”も歌ってしまった。一段と拍手が大きくなった。
ギャラもなければお捻りもなかった。でも、気持ちよかった!
定年後は歌手にでもなるか?
桝谷さんが外国から買い込んできたのは、本だけではなかった。
「国内の半額以下で手に入った」
から、米国製の高額高級プリアンプを買ってきた。
(余談)
ここまで書いてWebで検索したら、このプリアンプの中古が、何と42万円で出ており、しかもSoldとあった。1970年ごろ、新品だと24万円していた製品である。
私も、昔、このアンプにあこがれたが、無論買えなかった。
今は、欲しくも何ともない。これもクリスキットのおかげである。
桝谷さんは、買ってきたプリアンプをすぐに分解し始めた。どんな回路や部品が使われているのかを自分の目で確かめる。これが桝谷流の探求心である。
「アンプの天板をはずしたりしたら、天板を取り付けているネジに傷でもつけてしもうたりしたら、音質が変わってしまうんやないかなんて言うて、天板さえよう開けん人がおりますやろ。理屈のわからん人は困ったもんですわ」
分解して、ますますアンプは自作に限ると意を強くした。
「使うてある抵抗やコンデンサは、まったくの安物。おまけに、四角でペラペラのプラスチック製基板が2本のビスで取り付けてあるんですわ。四角なプラスチックの板を2本足で支えてみなはれ。プラプラしてどもなりまへんわ。こんなんからいい音が出るはずがありまへん」
(注)
ビスは3本だったかもしれない。記憶が曖昧になっている。が、4本、1本でなかったのは間違いない。
高額高級アンプは、ますます自作アンプの優秀性を確信させるだけだった。
理論の次は実践である。
桝谷さんは、いよいよ製作に取りかかった。
桝谷さんにとって、アンプとは、CDやレコード、テープに入っている音楽を、できるだけ歪めることなく増幅し、スピーカーに送り込むための装置である。そこで働くのは物理法則だけで、おまじないをしたら音が良くなるとか、0時10分に製作を始めたら、一段と音がクリアになる(0=お、10=と ∴0:10=おと)などという神秘的な要素は何もない。
この単純明快な原則のもと、桝谷さんは回路を設計し、部品を選択し、製作を始めた。最初に完成した、真空管を使ったプリアンプを
「Chriskit mark III 」
と名付けた。
1号機である。残念ながら、性能は、
「ほんの少々だがハムが出たり、どうも高域がすっきりしない、などトラブルが多かった」(ラジオ技術1971年5月号、「私のリスニング・ルーム第159回 ― 厳しくもアマチュア気質を重じて」より)
(注)
「重んじて」だと思うのだが、原文には「重じて」とある。
心血を注いで作り上げた作品が、満足できるものにならなかった。90%の人間は、
「やはり私には無理なのではないか。そうでなければ、市販のプリアンプが1台24万円もするはずがない」
と、ここでくじけてしまう。
だが、桝谷精神は不滅だった。
なぜトラブルが多いのか。桝谷さんは、測定器を使わなかったからだ、と考える。考えつくと、必要なものを収集する。
オシロスコープ
オーディオ・ジェネレーター
交流信号用ミリバル
ひずみ率計
真空管電圧計
ディケード・レジスタンス
キャパシティ・サブスティチュート
ピークトラピーク・バルボル
桝谷さんが集めた測定器のすべてである。全部集め終わるまで4、5年かかった。
私には、これらがいったい何者なのか、まったく判らない。見たことも、使ったこともない。
だが、理屈が判っている人が使いこなすと、確かに役に立つのだろう。桝谷さんにとって、測定器の威力は絶大だったらしい。
次の作品、「Chriskit mark IV 」は、ハムがほとんどなくなり、音質も遙かによくなった。
クリスキットの原型が、こうして誕生した。
桝谷さんは、毎日毎日、持っていたレコードを片っ端からかけた。片っ端からかけて、自分の作ったアンプから出てくる美しい音楽に酔った。
酔っているだけでは進歩がない。
(余談)
酔っているだけでは進歩がない。判っていながら、そう書きながら、毎日酔って帰宅する私とは、何者なのだ?
やがて、「IV」は「V」に進み、さらにその改良型が生まれた。その製作記事をラジオ技術に発表すると、
「私も作りたい」
という反響が殺到した。反響はそのうち、
「部品の入手が難しい。何とかならないか」
という声が大半を占めるようになった。
「では、我が社が部品をセットにして販売しましょう」
というところが現れた。
パーツセットとしてのクリスキットが誕生した。このころにはさらに改良が加えられ、「Chriskit mark VI 」になっていた。当時の価格は3万9000円であった。
誇らしかったに違いない。達成感に包まれたに違いない。飛び回りたかったに違いない。
この時の気持ちを、桝谷さんはこう書いている。
これで、いつも私が考えていたこと、つまり魔法でも封じ込んでいない限り、マランツ・マッキントッシュクラスのプリアンプが、私たちに作り得ないはずはない、ということが立証されたわけである。音楽雑誌などに、よくこの世の音とも思われない程の優れた音のアンプとして紹介されている、これらの特別高価な、舶来のアンプも、私共が使用できるのと同じ真空管が使われCRにしても、そこいらで見かけるものと大差ないとすれば、メーカー製と違って、商政策上のいろいろな問題点はないのだから、私共に同じような音質のプリアンプができないわけはないはずであると、と常々考えていたことに対する自信ができたことになる。
思えばずい分遠い道のりであった。一時は我が家のステレオは永久に完成しないのではなかろうか、と思った位である。
たこ焼き先生に出会ってから、10数年の歳月が流れていた。