2023
07.18

私と朝日新聞 岐阜支局の12 子ども見つけたの1

らかす日誌

「大道君、ちょっと」

と松本デスクに呼ばれたのは1978年10月の終わりか11月のはじめだったはずだ。何事だろう、と寄っていくと

「来年の新年企画ね、君にやって欲しいんだ」

新年企画とは、1月1日の朝刊から始まる連載のことである。年末年始、特に年始は世の中の動きがパッタリ止まる。みんなで俗事を離れて新年を寿ぎ、新しい年に思いを馳せるのは暮らしのリズムとして私たちの中に溶け込んでいる。それはいいのだが、新聞に撮っては困ることが起きる。世の中が動かないということはニュースがないということだ。だからといって何も印刷していない新聞を配達し、

「メモにでも使って下さい」

というわけにもいかない。だから、連載記事を掲載して紙面を埋める
それは新聞社の事情だが、記者にとっては腕を磨く機会でもある。1つのテーマを深く掘り下げて、何かを読者に訴えかける。ハードルの高い仕事だが、やりがいはある。

「何をやるんですか?」

と聞いた。

「うん、何でもいい。君が考えてくれ」

ほう。すべて私任せ。困ったな。俺はアイデアマンではないんだが。
しかし、これは業務命令である。それに、任されたことが嬉しくないこともない。

その日から、

「新年企画、新年企画……」

と考え続けた。ふっと思いついたのは、自宅で湯船に浸かっている最中だった。

「子ども、をやろう。教育の現場を見てみよう」

その頃、我が家には可愛い盛りの2人の子がいた。長男は岐阜に来て幼稚園生となった。長女はまだ2歳である。子どもを持つと、人は教育を考え始めるらしい。そんな時期に正月企画をやれ、といわれて、仕事を自分の家族に引き寄せて考えたらしい。

それに、私は朝日新聞が社会面で長期連載していた「いま学校で」というコラムが大好きだった。小学校(中学、高校もあったかもしれない)の「いま」を生き生きと伝え、教育の問題点を掘り下げる記事である。この頃の私は、支局の次は社会部に行って教育担当になり、「いま学校で」のライターに加わりたいとまで思っていた。であれば、岐阜の教育現場を知っておくのも悪くない。

そして、もうひとつ強力な理由があった。「憲法特集」で教えを受けた近藤宏先生である。あれを皮切りにしばしば近藤先生を訪ねて話を聞いていたから、

「近藤先生なら、岐阜県下の教育のいまについて詳しいはずだ。近藤先生を通じれば取材先が広がる」

と考えたのである。

しかし、子ども、教育を取り上げるといっても、どういう角度で取材をするのか。「いま学校で」はどちらかといえば問題提起型の連載で、病んでいる現場を多く取り上げていた。であれば、岐阜県で同じことをしてみても意味はなかろう。そこで、

「よし、生き生きした子ども、生き生きした子どもを育てる教育実践を取り上げよう」

と思い定めた。

松本デスクにそんな企画を上げた。すぐに了解してくれた。そして、岐阜支局にBB(Big Brother=社歴10年から15年のベテラン記者を支局に出し、若い連中を育てるシステム)として来ていた先輩を、私のサブに付けてくれた。

「2人でやってくれ」

というのである。
そのBBは、記憶によると松田さんといった。名古屋本社社会部で「いま学校で」の取材チームに加わったこともある。だから教育現場に詳しいことが、何よりもありがたかった。

日々の新聞原稿にはあるパターンがある。5W1Hを欠かさず、記事は逆三角形で書く。つまり重要な事から書く。記事の核になるのは、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、どうした(How)である。これを最初の10行、ないし15行に押し込む。これだけ読めば何が起きたかは分かる。そこで次の段落で、何故(Why)を付け加え、3つ目の段落以降では、その出来事の背景や似たような出来事、目撃者の感想などを重要なものから並べていく。記事が多くて紙面から溢れる時、原稿の後ろから削り取っていくためである。記事が溢れた時、すべての原稿を短く書き直す時間など新聞社にはないからだ。

そんなパターン原稿はある程度書き慣れていた。しかし、連載にはそんなパターンはない。パターンがないから、ライターの筆力がもろに顔を出す。ハードルが高いのである。松田さんは取材力、筆力を評価されて「いま学校で」の取材チームにいた。

その松田さんと一緒に仕事をする。これは、松田さんの筆力を盗むチャンスである。私は正面突破を試みた。裏口から入るような姑息な真似はしたくない。

「こんな企画記事を書く時のコツってありますか?」

松田さんは物静かな人である。じっと私の顔を見ると、訥々と話し始めた。

「書きたいこと、書かなきゃいけないこと、があるから取材をするのでしょう。取材しながら、思ってもみなかった面白い、重要な事も聞き出すでしょう。例えば、最終的に120行の原稿を書かなければならないとします。そんなことは無視して、取材したことを全部書いてみるんです。200行になっても300行になってもかまいません。書き終えたら、それを120行に縮めるんです。表現を工夫し、行間に意味を持たせ、書きたかったことをすべて押し込む。私はそうやって書いています」

ありがたい教えだった。こうして私たちは、1979年1月の朝日新聞岐阜版を飾る連載の取材を始めた。タイトルは「子ども見つけた」。全15回の連載だった。

と、今回の原稿を書くため、「子ども見つけた」を読み返した。不覚にも涙が浮かんだ。自分で言うのもおかしいが、生き生きとした子どもたちが、時がたってすっかり黄ばんでしまった切り抜きから飛び出してくるような気がしたのである。ひょっとしたら、老いのせいか、あるいは寝酒に飲んでいたウイスキーのせいかもしれないが……。

涙を拭きながら考えた。この切り抜きは、やがて判読不能なほど劣化するだろう。もったいない。だったら、「らかす」に記録しおくか?
というわけで、次回からしばらく、「子ども見つけた」にお付き合い願う。