ヘミングウェイの文章に違和感が…

アーネスト・ヘミングウェイの小説を読んでいる。きっかけはWOWOWで放映された「私が愛したヘミングウェイ」というテレビドラマである。主役は、ヘミングウェイの3人目の妻となったマーサ・ゲルホーンを演じたニコール・キッドマンである。

2時間半にも及ぶこのドラマを見ながら、私はヘミングウェイに惹きこまれた。椅子を使わず立ったままタイプライターで原稿を書く執筆スタイル、義を見てせざるは勇なきなり、という身の処し方。そして、真面目で保守的な妻に飽き足らず、戦場ジャーナリストとして活動を続けるマーサ・ゲルホーンに惹かれる道筋。どれもこれも、私を魅了した。

魅了されながら、ふと思った。

「俺、ヘミングウェイを呼んだことがあったっけ?」

なかった。急遽、Amazonに注文した。「誰がために鐘は鳴る」「武器よさらば」「老人と海」「日はまた昇る」の4冊、いや「誰がために鐘は鳴る」は上下2冊だから、5冊である。
そして、「誰がために鐘は鳴る」は読み終えた。いまは「武器よさらば」を半分ほど読んだところである。

アーネスト・ヘミングウェイはノーベル文学賞を得た文豪である。私は逆立ちしたって、そんなものにはなりえない。それなのに、ヘミングウェイの小説に、

「おいおい、こんな文章しか書けないのか?」

という違和感を感じている。

まず、饒舌である。饒舌すぎるといってもいい。新聞や雑誌に連載された小説なら

「原稿料をよりたくさん稼ぐために引き伸ばしているのか?」

とでもいいたくなる饒舌さである、もっと、一気に先に進めよ、といういらだちが募る。

そして、会話の面白くないこと。つまらない会話を延々と続けるところが多々ある、

戦友に向かって

「Baby」

と呼びかけるのも、何かなあ、である。

そこで考えみた。これはヘミングウェイが悪いのか。それとも翻訳者が悪いのか。
例えば、原文ではこんな会話文がある。

「How do you feel, baby? I brought you this.」

これを翻訳者は

「具合はどうだい、ベイビー? ほら、これを持ってきてやったぞ」

と訳している。おいおい、ちょっと待てや。我が国ではどんなに親しい男友達にでも「ベイビー?」と呼びかけることは絶対にないぞ!
私なら、こう訳する。

「おい、具合はどうだ? これ、持ってきたぜ」

こちらの方が、はるかに読みやすいと私は一人思っている。

が、罪は翻訳者だけだとも思えない。そもそもヘミングウェイは女を描くこと、会話を普通にすることが不得手な作家ではなかったか?

「誰がために鐘は鳴る」のヒロイン、マリアは全く生きた人間とは思えない。というか、そのセリフを拾っていくと、知的障害があるのではという思いさえ生まれてくる。絶世の美女らしいが、美人は3日見たら飽きる、の類いとしか思えない。多少なりとも知的な会話が交わせない女に魅力を感じ続けることは無理ではないか? 床の間に飾って、時折賞味するだけならともかく。

会話のとりとめのなさも、ヘミングウェイの特徴である。ほとんど会話から成り立っている「武器よさらば」から拾ってみよう。

「可愛らしい部屋だわ、ミラノにいる間、ずっとここにいればよかった」
「何だか妙な部屋だけど、これもいいじゃないか」
「悪徳って、素晴らしいものなのね。それを求める人たちは、いい趣味を持っているんだわ。赤いビロードも本当にステキだし、こういうところは、まさにこうでなくちゃ。鏡だって、とてもチャーミングだし」
「いいコだよ、きみは」
「こういう部屋って、朝になって目が覚めたら、どんな感じなのかしら。でも、本当にステキな部屋」

いや、最適な箇所を抜き出したかは自信がないが、これだって「つまらない」会話の一例である。ヘミングウェイは人と話すのが、とりわけ女性と話すのが不得手だったのか?

というわけで、ページがちっとも進まない。読みながらため息が出るのである。筋書きとは別に、つまらない文章がてんこ盛りになっているのがヘミングウェイらしいのだ。

と大言壮語しつつ、己の感覚にも疑問を持つのが私である、ノーベル賞作家をそこまで悪し様にこき下ろしていいのか?

まあ、ヘミングウェイがノーベル賞を得たのは「老人と海」である。この小説を読むまでは、ヘミングウェイへの最終評価は下さないことにする。若き日の失敗作を肥しに作家は成長するだろうからだ。

しかし、夏目漱石は世に出た第1作「吾輩は猫である」から、立派な作家だったけどなあ、と思わないこともない私である。

そういえば、夏目漱石な何でノーベル文学賞をとらなかったのだ?

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