2012
06.22

2012年6月22日 お騒がせおばちゃん

らかす日誌

桐生のお騒がせおばちゃん、ひょっとしたら全国区のお騒がせおばちゃんかも知れないが、その庭山由紀元市議のインタビュー記事が、今日、こちらの新聞に載った。

この人、自分が登場するメディアを選んでインタビューに応じたという評判がある。何でも、今回は19日に群馬県庁に行って知事に放射能問題を訴えようとしたことを記事にしてくれたところだけを選んだ、とのことだ。
まあ、このような場合、選ばれたメディアを

「よくやった」

と賞賛すべきか。選ばれなかったメディアに

「メディアとしての矜持を守った」

と共感を示すべきか。
難しいところである。

ま、それは別として、群馬県外の方は、関心があってもお読みになれないかも知れないので、私が

「なるほど、この人はこういう人か」

と思ったところを部分的に紹介する。
いや、全文紹介するのは、ちと面倒臭いので……。

まず、東京新聞は朝刊で報じた。見出しには

「議会外の発言の言葉狩り」

とあった。ふむ、この問題を言葉狩りで済ませるか。ここに、この人の特異性の一端がある。見出しに取られた一問一答は、このようなものだ。

 —— ネットの一部の表現が過激との批判がある。

 「なぜそう思うのか、逆に聞きたい。言葉狩りではないか。ツイッターでどんな言葉を使うかは表現の自由。私が議会や市役所の問題の内部告発のようなことをやり、議員を続けられたのは、ネットがあったから。議会や行政の中だけの問題や情報がネットで表に出て反響もあった」

 —— 放射能汚染の危険や議会の問題をネットで発信する際、あえて過激な発言を選んでいるのか。

 「選んでいる。ネットで丁寧に長々と書いても誰が振り返るのか。関心や疑問を持ってもらえなければ、皆さんに考えてもらえない。ツイッターの言葉は新聞の見出しのようなものだ」

なるほど、こういう人か。
例えば、騒ぎの元となった献血発言。

「献血の車が止まっているけど、放射能汚染地域に住む人の血って、ほしいですか?」

という発言には、まったく事実の裏付けがない

輸血用の血液には、輸血の実施前に放射線を照射する。血液中のリンパ球の活性を失わせるためだ。リンパ球が元気だと、輸血を受けた人の体を攻撃して組織を壊してしまう恐れがある。「輸血後移植片対宿主病」といわれ、それを防ぐ有効な手段が、放射線の照射なのである。
つまり、輸血される血液は、必ず放射線を浴びている。

それでも、放射性セシウムができるだけ含まれない血液の方がいいに違いない、と思われる方もおられよう。だが、仮に1ミリシーベルト被曝したとしても、体重60kgの人から採った400ccの血液に含まれる放射線量は、計算上0.0067ミリシーベルトしかない。みんなが体内に持っている放射性物質から受けている被曝量、年間0.4ミリシーベルトに比べれば、無視できるほど小さい
以上は、専門家に聞いた話だ。

さて、この2つの事実からして、お騒がせおばさんのつぶやきは、事実に基づいているとはとても思えない。事実に基づかない発言は、果たして表現の自由で守らねばならないものなのか。
満員の映画館(最近はほとんどないが)で、

「火事だ!」

と叫ぶ自由をあなたは認めるか。それが事実なら叫ばねばならない。漫然と座っていたら、全員が焼け死ぬ危険がある。
だが、事実でないとしたら? 満員の映画館でパニックが起きれば、出口に殺到する人々の間からはけが人が出る。悪くすれば死人すら出かねない。それでも

表現の自由

は尊重しなければならないのか?
ヒトラーは、事実に基づかない人種差別政策で多くのユダヤ人を殺した。ヒトラーにも表現の自由を認めなければならないのか。

過激な発言は、人の注意を引きつけるための手段だという。この人、駅売りのスポーツ新聞の編集の経験でもあるのか?
視聴率を上げたいがために、民放は時折常識を逸脱し、お叱りを受ける。庭山女史の言い分は、お叱りを受けるかなあ、と思いながらも、視聴率のため、と目をつぶって過激な表現、演出を選び取るテレビ関係者と同じである。
市議は、視聴率競争にケツを叩かれるテレビ関係者と同じでいいのか?

加えていえば、過激な発言で寄り集まってくる人たちは、もともと同じ考えを持っている人々である。違った考えを持つ人々を自分のサイドに巻き込むには、じっくり、理と情を尽くした説得がいる。庭山女史が採用した手法では、元々同じサイドにいる人間だけが盛り上がり、表現が過激になるほど、

「何事かを成し遂げた」

という自己満足に酔いしれるだけである。酔いが覚めてみれば、こちらにはやっぱり同じ人数しかいない。いや、中には飽きてしまって抜け出した人間もいて、

「何で人数が減っちゃったのよ!」

と嘆くことになる。
この人、政治家としての資質に、決定的に欠ける。自己陶酔型の市民運動家に過ぎない。

 

などと考えながら、夕方配られてきた桐生タイムスのインタビュー記事を読んだ。中に、こんな下りがあった。

 「だた、今回の除名の件は不正義だからがんばってという電話がかかってきているが、かといって私が裁判をやったとしたときに、また私一人でやるの? みたいな……。おまかせ民主主義からそうでない方向にもっていけるかも考えているところ。関心を持って動いてくれる市民や国民でないと、どうにもならない」

多少の反省と後悔はあるようだ。
ただ、彼女は、自分でいうおまかせ民主主義の上で踊っただけであることをどこまで自覚しているのか。おまかせ民主主義でなければ、彼女のようなキャラクターは議席を持ち得なかったことを分かっているのかどうか。

単文のツイッターに反応してくる連中は、自ら考えたり活動したりすることではなく、単にキーボードをたたいて反体制ポーズをとることで自己満足しているどうしようもない人間たちであること、結局彼女が依拠したのは、そういう当てにならない幽霊みたいな連中であったことをどこまで悔いているのか。
ここにいるのは、悲しいネット人間である。

とはいえ、前にも書いたが、私は、庭山女史を懲罰動議で除名にした桐生市議会には疑問を持つ。市民がリコールに立ち上がって彼女の首を取っていたら、100%支持したが。

国から地方まで、日本の政治は痴呆状態にある、と嘆きたくなる今日この頃である。