2019
05.20

官僚が安倍政権に擦り寄ることと、政治主導の違いはどこにあるのだろうと、今朝の朝日新聞を見て考えた

らかす日誌

「長期政権の磁界」という連載が今朝から始まった。朝日新聞の話である。

私は、この手の話はあまり読まない。データがあるというより、筆者グループの思いが前面に押し出されることが多いからだ。時には

「それは無理でしょ」

といいたくなる主張もある。だから無視して通り過ぎようとしたら、導入部に大阪府泉佐野市が出てきた。ふるさと納税についてのルール違反が目立ち、問題になっているところである。国に処罰を受けて、なにやら不満たらたらの自治体。かつて、ふるさと納税を批判する拙文をこの欄で書いたこともあり、何となく興味を駆られて読んでみた。

この記事によると、ふるさとの税制度を取り仕切る総務省内にはかつて、この制度を問題視する動きがあった。

「返礼品競争を煽る」

と、制度の立案者である菅義偉官房長官に苦言を呈し、左遷された幹部がいたという。ほほう、制度の問題点に気がついていたのは私だけではなかったか。

今回の泉佐野市の一件では、総務省はルールを無視して497億円という巨額の寄付を集めた泉佐野市への地方交付税を減額する懲罰を下した。その際、省内に

「菅さんの顔を潰すわけにはいかない」

という忖度があったというのである。菅官房長官の顔を立て、ふるさと納税制度自体は悪くない、悪いのはルールを無視した泉佐野市である、という図式を総務省がつくった、というのだ。それは、安倍長期政権への、官僚の擦り寄り出はないか、といいたいのだろう。

擦り寄りは総務省だけではなく、文部科学省、財務省などにも広がっている、と記事は続く。なるほど、最近の霞ヶ関ではそんな動きがあるのか。

霞ヶ関の官僚は時の政権に擦り寄ってはならない。政権から自立して行政を進めるべきである、というのが記事の主張だとみえる。ふるさとの税制度の問題は、その一コマとして取り上げられたわけだ。
がが、ここまで読んできて違和感を持った。
だけどさあ、

「官僚主導を打破し、政治主導で物事を進めなければならない」

というのが、最近の、朝日新聞を含めた論調ではなかったか?
特に、民主党政権が成立した前後から、何かというと霞ヶ関の官僚を悪者にして、そんな論調を強く押し出していたメデイアの一翼に、朝日新聞もいたのではなかったか?

内閣が行政を主導することと、行政が先に内閣の思いを忖度して政権に擦り寄ることに違いは何だ? 違いはあるのか?

というのが、私の違和感である。

政治が行政を主導し、最終責任を負うということは、官僚は内閣の手足になり、彼らのいうままに行政を進めなければならない、ということである。だとしたら、内閣が人事権を行使して内閣の意に沿わない官僚を左遷するなどの強権を発動する前に、内閣の考えを忖度して官僚が動くのは、理想的なことではないのか? いったい、何が問題なんだ?

お断りしておくが、私は政治主導がいいとは思っていない。票田を気にせざるを得ない政治家たちの思うままに行政が進められたら大変なことになる、と危惧する一人である。加えて、ふるさと納税制度にも批判を持ち、一度も使ったことはない。

そんな私の危惧とは別のところで世の論調が建てられるのは仕方がないことである。しかし、一度建てた論調は、変えないのが論者の責任のあり方ではないか?

ある時は、官僚支配を打破して政治主導の行政を行うべきだと唱え、ある時は、官僚は内閣の意向を忖度してはならない、と主張するのは二枚舌と言われても仕方がないのではないか?

いや、別に安倍内閣をくさしてはならないというのではない。私も、何をやっても支持率が高止まりする安倍内閣には、一種の不気味さを感じている。必要な批判は、繰り返し浴びせるべきだと思う。
しかし、浴びせる批判は有効なものでなければならない。論を立てる足元がその都度変わるようでは、有効な批判にはなりえない。この記事の論じ方では、私が菅官房長官なら、

「政治主導の行政をせよとみなさんはおっしゃった。それを粛々と進めた結果、官僚のみなさんにもご理解いただいて今日の姿がある。何か問題が?」

と答弁する。あなた方、二の句が継げますか?

明日は横浜に行く。22日、私の古希の誕生日だが、東京で訪問する会社があるためだ。午前10時の約束なので、当日桐生を出るのでは、朝6時台の電車に乗らねばならない。よって1日前に横浜に行き、瑛汰や璃子の顔を見ながら1泊して仕事に臨む。
一緒に訪問する2人のうち、一人は資材搬送のため当日車で東京に行く。もう一人は早朝の電車で東京に向かう。一番楽な思いをするのは私のようである。

今晩から明日にかけて豪雨という予報だ。まあ、仕事の日にもこんな天気はあるさ。
といいながら空模様が気になる私であった。