2021
07.17

とうとう来ましたね、夏が。

らかす日誌

つい数日前、涼しい梅雨を礼賛したばかりだというのに、あっという間に夏本番が到着した。昨日、車の外気温計は一時34.5℃を指した。今日の最高気温は34℃ほど。駐車場に出てパイプタバコを楽しむ朝、昼それぞれ30分。朝は出なかった汗が、昼のパイプ時間には頭から流れ落ちた。私の部屋は朝から、エアコンをかけっぱなしである。

今日梅雨明けしたそうな。でもiPhoneで天気予報を見たら、あれまあ、晴天は19日までで、20日からは再び雨模様。最高金も下がるようだ。もう一度梅雨入りするのかな?

夏、といえば甲子園である。我が古巣が主催する、高校球児の夏の祭典。かつて甲子園まで取材に行き、グラウンドに立ってアルプススタンドを見上げ

「ここに人がびっしり詰まる。そんな中でプレーするなんて、高校生って凄いな。俺だったら、上がって上がって、球なんか見えないだろうに」

と思ってしまった想い出があるからか、あるいは古巣へのそこはかとない思いがあるからか。

「書かなきゃ」

と思いながら、今日まで書かなかったことがある。今年の高校野球である。いま、全国で予選大会が真っ盛り。甲子園を目指して練習を重ねてきた球児たちが甲子園を目指し、あるいは高校3年間の思いを込めて、必死に白球に食らいついている。

様々な批判を耳にするが、私は高校野球が好きである。勝って泣き、負けて泣く球児たちの姿は、何とも清々しい。どれほど点差があろうとも、9回に3つのアウトを取られるまでは何とか1点でもとりたい、出来れば同点打、逆転打を打ちたい、と祈るような気持ちで打席に入る姿を見ると、何ともいじらしくて思わず見とれてしまう。

それでも、である。今年の私は彼らの姿を見ると思ってしまうのだ。

あれ、高校野球はやってるの?

夏の高校野球は朝日新聞社の主催である。その朝日新聞は社説で、東京オリンピックは中止すべきだと主張した。ずっと前から東京オリンピックは中止すべきだと書き続けてきた私は、この社説を歓迎する文章を書いた。そして、東京でのコロナ感染者が1日1000人を越え、選手からも大会関係者からも感染者が出ている現在。その主張に間違いはないと確信しいている。

だから思うのである。
東京オリンピックと夏の甲子園の違いは何だろう? オリンピックは中止すべきと主張する新聞社が、自分が主催する甲子園大会は、素知らぬ顔で開催する。
それって、どこか変だろう?

コロナ感染は、東京中心に広がりを見せている。そして、オリンピック競技の会場は、ほとんどが東京である。
一方、東京に比べれば、それ以外の府県のコロナ感染はまだましである。だから、地方大会を開いてもいいというのか? しかし、東京だっていま、予選の真っ最中だ。高校野球の予選を開くのは問題がなくて、オリンピックを開くのは問題だ、という理屈は成立するのか? いや、オリンピックの中止を訴えた朝日新聞の紙面で、

「これこれ、こういう理由で夏の高校野球を開催するのは問題ない」

という説明があったか?
読み落としたのかも知れないが、私はそのような記事にに記憶はない。

例え説明があったとしても、これはダブルスタンダードだと思う。オリンピック競技には野球もある。オリンピックでやる野球は駄目で、高校野球はかまわない。こんな結論は、2つの基準を適当に使い分けなければ導き出せないはずである。そして、なぜそんな理屈が導き出されたかといえば、一方は自らの主催ではなく、他方は自ら主催する、という立場の論理以外にありえない。

現役時代、

「自分が出来ないことを、他人が出来ないからといって批判することは出来ない」

を、私は記事の基準としていた。自分が賄賂性の金を受け取ったら、賄賂を受け取った政治家を批判してはならない。不正な取引に手を染めたことがあれば、経済犯罪を批判してはならない。人を殺したことがあれば、殺人者を批判出来ない。
実に単純は基準である。だが、その程度の基準を持たずに、新聞記者は批判記事を書いてはならないし、批判記事が書けないのなら、そもそも新聞記者失格である。

己は高校野球全国大会を粛々と実行する。それなのに、朝日新聞はどんな基準をもってオリンピック中止を主張したのだろうか。

まだ若かったある日、会社で経済部会が開かれた。その場背経済部長がおっしゃった。

「いま、週刊文春が朝日新聞の取材に入っている。君らのところにも取材があるかも知れないが、一切答えないように。それでもつきまとわれたら、『取材の窓口は広報に一本化されている』と答えなさい」

週刊文春からしょっちゅう叩かれていた、朝日新聞全盛期のことである。朝日新聞が衰退してからは、ちっとも朝日新聞のスキャンダルが週刊誌に載らない。どんなスキャンダルがあっても

「話題性がない」

つまり、朝日新聞に関心を持つ読者がいないということである。水に落ちた犬は叩いても、水に落ちて弱ってしまった犬を叩くのは面白くない、ということか。寂しいことだ。

それはそれとして、その時のスキャンダルが何であったかは記憶にない。それでも、強い違和感を覚えた。

「だったら、俺たちは何も出来なくなるじゃないか!」

記者はスキャンダルだけを追い求めたりはしない。経済部記者の基本的な仕事は、経済官庁、民間企業、経済団体などの動きを読者に正確に伝えることである。
だが、通常の取材にしても、表玄関からの取材だけでは、本質的なことは解らない。だから、取材先の家を深夜、早朝に襲い、街に引張りだしてぐでんぐでんになるまで酒を飲む。何とかして本音を引き出そうという試みである。
そして、取材対象は広報だけではない。役職者だけでもない。ずっと末席の職員、社員でも、情報を持っていると思われる対象は取材対象である。
スキャンダルの取材も、本質は普段の取材と変わらない。数多くの関係者にあたり、事実の断片を拾い上げてパズルを完成するのが記者の仕事である。
つまり、表沙汰にしたくないと思っている取材対象の口を何とかして開かなければ、まともな記事は書けない。

私は、出来たかどうかはともかく、新聞記者とはそんな仕事だと思って取材をしていた。その私が、取材を受けたら一言も口を開かない? それってダブルスタンダードじゃないか。取材するときは、取材対象が口を開いてくれるように説得しながら、取材を受けたら一切口をつぐむ。

部長、それは私達の仕事の自己否定じゃないですか!

気が弱い私は、会議の席でそう発言する勇気はなかった。ただ、もし私が取材されるようなことがあれば、知ってることは何でも話してやろうと心に決めた。
まあ、社内の動きや噂話には全く関心がなかった私だから、取材されても何も答えられなかっただろう。現実に、私に取材しようという週刊文春の記者は現れなかった。それでも、あの時に感じた強い違和感は、いまでも忘れられない。

話を元に戻す。
第103回全国高等学校野球選手権大会のホームページを開いてみた。組合せの抽選会はオンラインでやり、出場校の甲子園での練習は中止。出場校はPCR検査を受ける。
さて、観客はどうするのかと探すと

「観客の有無・上限数は7月21日の臨時運営委員会で決定」

とあった。恐らく、無観客になるのだろう。
それでも、である。大会の運営には沢山の人が関わる。舞台裏では常に、取材記者だけでなく、大会運営を担う高野連の人々が動き回っている。ここでクラスターが発生することを本当に抑えきれるのか?
一人でも感染者が出たら、主催する朝日新聞はどう対処するのか?

古巣のことが心配である。