2023
06.19

私と朝日新聞 津支局の10 入社式・新人研修

らかす日誌

入社から7ヶ月たって、1975年度の入社式と新人研修があり、私も参加した。その年、朝日新聞に記者職で入ったのはわずか23人。この年も5000人から6000人は受験したはずだし、例年60人から70人は採用していたはずだから、異例の少数である。

異例の少数、と書いて、異例の少数精鋭、と書かなかったのには訳がある。結果から見ると、私も含めたこの23人は、1人として朝日新聞の経営者にならず、1人として名記者と呼ばれるようにもならなかったのだ。私も含めて、実力不足の者ばかりがまかり間違って入っちゃった、という解釈もある。

「いや、企業での同期生はないかと守りあうものだ。この中から社長を出そうと力を合わせるのが同期生である。我々の期は少数精鋭だが、少数故に集団としての力が弱かった。60人、70人が入った期に、そのために負けた」

というヤツがいた。
一見もっともそうだが、それでは名記者が出なかった理由にはならない。それに、23人が力を合わせて何かをしたという記憶もない。せいぜい、時々同期会なる飲み会をやっただけである。

やっぱり、1975年組はおかしな入社試験の結果で入ることができた幸運児たちであったとしか思えない。

入社式は有楽町の朝日新聞東京本社で開かれた。事務職、技術職で入社した連中も一緒だったから、総勢で50人ぐらいにはなっていたか。

「はあ、やっぱり朝日新聞って凄いんだ」

と思ったことがあった。事務職で入社した1人に、頼山陽の子孫がいたのである。
頼山陽とは18世紀から19世紀にかけて生きた歴史家、思想家で、幕末の尊皇攘夷思想に影響を与えた「日本外史」を書いた。日本史の教科書には必ず出て来る(いまもそうだと思うが……)著名人である。
田舎育ちの私には、教科書に載るような著名人を先祖に持つ人物に会ったことがない。

「朝日新聞に入ると、こんな連中とも知り合いになるのか」

と驚いたのである。

23人の記者職の1人が、入社の言葉を述べた。彼が入社試験でトップの成績を収めたらしい。聞くと、群馬県の前橋高校から東大に進んだ俊秀だそうだ。
民主主義を守り育てることの大切さ、そのための朝日新聞の社会的使命、新聞記者の責任など、教科書に書いてあるような立派な論説だったような記憶がある。

「あんな作文、俺には絶対に書けない。流石に成績トップだなあ」

と感心した。
彼はのちに、経済部を経て論説委員になった。社説を書く職である。何となく筋が通っているようだが、朝日の社説で感心したことがない私からすれば、

「ふむ」

というしかない。

私と同じように繰り上げ入社をした仲間がいた。驚いたことに彼は、社会面に自分の記事が掲載された新聞を持参しており、

「これ、俺が書いたんだよ」

とアピールしていた。
私は、あの「青鉛筆」(こちらをご参照下さい)など持ってきてない。どうやら、私には自分を売り込む能力、発想が欠けているようだ。
もっとも、朝日新聞の同期生に自分の仕事ぶりをアピールして何の役に立つのかは理解できないが。

入社式が終わって2週間、新人研修があった。行き先は忘れたが、どこか山の中で泊まり込みの研修だった記憶がある。
同期生の1人に

「俺は朝日新聞の社長になる!」

と宣言したヤツがいた。
おかしな人である。そもそも私たちは、朝日の記者になりたくて入社試験を受けたのではなかったか? 企業のトップになるより、鉛筆1本で世の中を渡っていく仕事の方が意味がある、と思ったのではないか? 社長になるのなら、わずか数千億円の売上しかない朝日新聞より、1兆円を超える大企業に挑んだ方がいいのではないか?

「変なヤツがいる」

私はそう思った。そして結果から見ると、彼は社長にはならなかった。後悔しながら人生を送ったのだろうか?

大先輩の訓話があった。入江徳郎氏である。1963年から1970年まで「天声人語」を書いた大記者だ。

「あのね、朝日新聞は金と女のスキャンダルを嫌う。記者としてまっとうしたかったら心しなさい」

まあ、朝日新聞でなくても、その2つを嫌う企業は多かろう。

「君たちには様々な誘惑が迫ってくるだろう。しかし、おかしな金には絶対に手を出してはいけません」

それはよく分かる。

「そして女だが……。あれはばれたら大変なことになるから、それも心しておきなさい」

ばれなきゃいいってこと? それって一種のユーモア? 本音と建て前を使い分けろ、ってこと?
いろいろな思いが沸き上がったが、

「入江先輩。それはあなたの体験から出た言葉ですか?」

とは流石に聴けない私であった。

そのほかの研修内容はほぼ忘れた。写真の撮り方、現像・焼き付けの仕方、記事の書き方などを教わったはずなのだが、記憶にないのは、即席とはいえ一度研修を名古屋で受けていたためか。それとも、その後の仕事に研修があまり役に立たなかったからなのか。あるいは、私の記憶力の限界か。

あまり好きになれない署周りから離れた2週間は楽しかった。朝日新聞内に入っているレストラン、「アラスカ」でトーストを頼み、

「えっ、このトーストが350円!

と驚いたのも、今となればいい想い出である。いまなら当たり前の価格かも知れないが、何せ半世紀前である。目の玉が飛び出すほど驚いたのだ。

研修を終えた23人はそれぞれの任地に散っていった。私も津市に戻り、翌日から署回りを再開した。