2023
11.13

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の32 ミッションを達成した

らかす日誌

「大道君、先日はご馳走になったな。今度はこちらがご馳走そうする番だ。いつがいいか?」

いつもの夜回りで田渕社長宅に上がり込んでお酒を頂いていたら、田渕社長がそういった。4人で鳳仙花で食事をして1が月ほどたったころである。
ご馳走した? いや、あの時はかえってご馳走になりすぎたのではなかったか? しかし、私が誘った飲み会だったし、確かに1万円だけは負担した。ということは、社会常識からすると、今度は私がご馳走になる番なのか?

「いいですね。やりましょう」

どこでご馳走になったかは記憶にない。赤坂あたりの料亭だったか。

それから1ヵ月ほどして、今度は私が声をかけた。

「社長、今度はこちらの番ですよね。そろそろ飲みましょうよ」

1ヵ月1回程度、双方持ち回りで飲み会を開催する。なにしろ、相手は野村證券の社長である。そんな定例飲み会を築くことができれば、取材も多少は進むのではないか。ま、そのたびに財布がかなり軽くなるのは心掛かりだが、それは記者としての、いや、社会人としての自分を成長させるための必要経費ではないか。それに、田渕さんと飲むのは楽しいし。
そんな気軽な一言だった。

全く想定の反応が返ってきた。

「うん、飲もう。ただし、支払いはこっちだぞ」

???

「でも、前回はご馳走になったし、次は私が払うのが順番ではないですか」

支払う金額は、きっと月とすっぽんほどに違っている。何しろこっちは1万円だし、多分向こうは10万円ではすまない場所で私をもてなしている。それは重々承知だが、でも、交代でご馳走するという原則をなくしては取材先から独立していなければならない新聞記者としては困ったことになる。

「それにこだわるのなら、君と酒は飲まん」

いや、折角お近づきになれたと思っているのに、それは困ります。

「いいか。最初、君たちがポケットマネーでご馳走してくれたことはわかっている」

ん? ひょっとして、鳳仙花での支払いの際、領収書をもらわなかったところを見られた?

「私は痩せても枯れても野村證券の社長だ。その私が、新聞記者である君たちのポケットマネーでご馳走になるわけにはいかないことぐらい、君だってわかるだろう。だから、君が払うというのなら、もう君とは酒は飲めない」

それは困ります。

「だが、野村證券がすべて払うという条件を呑んでくれるのなら、君が誘ってくれたら必ず君と酒を飲む。どうだ、この条件を飲んでくれるか?」

さあ、困った。取材先の金で取材先と酒を飲み続ける。見方によっては、それは取材に名を借りたたかりである。まあ、相手が社長だからたかりではないにしても、客観的に見れば、私が野村證券の軍門に降るということだ。取材先から独立してこその新聞記者ではないか。この条件を飲めば、私は野村證券の御用記者に落ちぶれてしまうのではないか? それでいいのか?

数秒考えた。私はあるべき記者像を貫いて田渕さんとの仲をご破算にするのか? それとも、御用記者といわれかねないリスクを犯して飲み会を続けるのか? 道は2つに1つしかない。

決めた。

「わかりました。御世話になります」

毒を食らわば皿まで、ともいう。ここで原則を貫けば、私は野村證券の、田渕社長の懐には飛び込めない。ご馳走になり続けようと、人が何と見ようと、私が記者の原則を守り続ければいいではないか。

「おお、よかった。だったら秘書から日程は連絡させる。美味い酒を飲もう」

その後も、田渕社長とは2、3ヵ月に1回のペースで酒席を持ち続けた。すべて野村證券の支払いである。

「おい、この杯を見てみろ」

ある料亭で田渕社長が言った。見ると、和歌のようなものが書いている。達筆すぎて私には読めない。

「これはな、井伊直弼の女だったたか女が書いたものだ。その杯がこの料亭に残っている」

「何ですか、そのたか女って?」

「お前はたか女も知らないのか? 君は船橋聖一の『花の生涯』を読んだことがないのか? 朝日新聞記者の教養もたいしたことはないな」

翌日、「花の生涯」を探した。書店にはなかった。まだAmazonという便利なものはなかったので、出版元に問い合わせた。在庫はあるという。何故か5冊注文した。きっと、誰かに分けてあげたくなる日が来るに違いないと思ったのだろう。本が届くとむさぼり読んだ。

たか女はフルネームを村山たか女という。一時は井伊直弼の妾であり、のちに直弼が彦根藩主、大老となってからは直弼の密偵となって働いた女性である。
田渕社長と飲み会を続けなければ、絶対に知ることがなかった女性だ。それだけでなく、多くが明治維新を成し遂げた薩長=勝者の視点から書かれる幕末史で極悪人として描かれる井伊直弼が、当時の世界情勢を正確に読み取り、日本を救うには開国しかないと判断して大なたを振るった政治家であったことも知った。いわば、薩長史観から離れて、歴史は多面的に見なければならないということも学んだのであった。

「大道君、君たちは問題にぶつかると、絡まり合った問題をそのまま解こうとする傾向があるな。だから、何をしたいのかわからなくなる」

という話を聞いたのは、何度目の飲み会だっただろうか。

「あのな、どんなに複雑に見える問題でも、整理していけば必ず右か、左かという単純な二者択一の形に還元できるものだ。選択肢が2つに絞られれば、あとはどちらを取った方がいいのかという単純な問題になる。その整理をする努力をせずに、ああでもない、こうでもない、といっているのが君たち新聞記者だと思えるのだが、どうだ?」

グウの音も出ない教えである。

またあるときは、スペイン出張から戻ってきた田渕社長が

「アルタミラ洞窟を見てきた。あの洞窟壁画は2万年近く昔に描かれたものだ。素晴らしい躍動感がある。あれを見ると、あのころから人間なんてちっとも変わっていないんだなあ、と思わされるぞ」

という話を始めた。田渕社長は私の小さく凝り固まった世界を押し広げ、世の中にはもっと知らねばならないことが沢山あることを教えてくれた。私の後半生のであるといえる。

「洞窟の近くで、あの洞窟壁画を写した絵を売っていたので、誰かにあげようと思って10枚買って来たんだ」

私はすぐに反応した。

「私に1枚下さい」

そして後日、私のもとにアルタミラ洞窟壁画が届いた。額装して部屋に飾った。あの絵、1枚いくらしたんだろう? それを聞くのを忘れていた。

田渕社長とこんな付き合いができるようになって、私は野村證券に迎え入れられた。何かを取材したくて広報部に申し込むと、部長さんは担当部署に電話を入れ、必ず

「大道さんって、田渕社長と仲がいいんだわ」

と付け加えてくれた。社長と仲のいい記者、しばしば社長と懇談している記者は、社員から見れば「怖い記者」(何を告げ口されるかわからない)であり、「信頼できる記者」(社長が信頼しているのだから大丈夫だろう)になる。それがサラリーマンの世界だろう。

どこの部署の、誰に会っても厚遇された。専務さんとも常務さんとも酒を酌み交わす仲になった。さすがに、3ヵ月で野村證券の社長から電話1本で情報を取れるようにはなれなかったが、4、5ヶ月後には社長専用車の車載電話の番号を知り(当時はまだ、携帯電話は普及していなかった)、必要なときはその電話にかけてもいいという許可を得た。そして数回しかなかったが、実際に電話を掛けた。田渕社長がまだ宴席にいるときは運転手さんが電話を取ってくれ、しばらくすると田渕社長が電話をくれた。
私は、経済部長から命じられたミッションを達成した、と判断した。

それにしても、である。証券担当になった私に、先輩たちは

「野村證券には絶対に食い込めない」

と口をそろえた。私から見れば、彼らは食い込む努力を十分にはしなかっただけに過ぎない。努力不足でできなかったことを客観情勢(野村證券は日本経済新聞とつるんでいる)のせいにし、自分の努力不足を覆い隠して正当化する。何しろ、朝日新聞は頭の良すぎるバカの集まりなのだ。その程度の理屈をひねり出す頭は、多くの記者が持っているのである。

私は腹の中で、彼らを

「俺はできたんだけど、あんたたちは何をやってたの?」

と心の中で笑うようになった。