2023
11.16

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の35 田淵さんと塩野七生さんを繋いだ話

らかす日誌

田淵社長には文化に貢献したいという夢があった。社長在任中、世界中の音楽家の卵を札幌に集めてPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)を立ち上げたのである。野村證券が財団を作って費用を負担する。札幌に集まった卵たちは、時代を代表する指揮者の1人であるレナード・バーンスタインの指導を受ける。

田淵さんがクラシック音楽のファンだったかどうかは聞き逃した。ご自宅でステレオらしきものを見た覚えもない。しかし、

「俺はなあ、公職を全部退いたら、この財団の理事長になろうと思っている。まあ、余生の道楽だな」

とよく語っていた。
その設立準備が進んでいたのだから、1989年か90年のことだった。すでに証券担当を卒業し、経済企画庁担当になっていた私に、田淵さんから電話があった。

「君は塩野七生君を知ってるんだったなあ」

私が塩野七生さんと知り合った経緯は、「私と朝日新聞 東京経済部の10 天下りをしない官僚」で書いた。知り合っても彼女の著作を読むことはなく、初めて読んだのが、野村證券の支店長研修テキストの1つとして手に入った「海の都の物語(上)」だった。あまりの面白さに書店に走り、「海の都の物語(下)」を買い求め、むさぼるように読んだ。だから

「私の通産省時代と野村証券担当時代を繋ぐ不思議な縁です」

という話を田淵さんにしていたのだろう。

「はあ、酒を飲んだこともありますが、それが何か?」

田淵さん、塩野さんに何か用事があるのだろうか?

「だったら、彼女を紹介してくれないか」

話を聞くと、これからPMFを立ち上げ、その財政基盤として財団を作る。塩野さんにその財団の理事になってほしい、というのである。

ほう、私が何かを繋いだか。私は2つ返事で引き受け、ローマの彼女の自宅に電話をして田淵さんの願いを伝えた。

「だったら、〇〇ごろに日本に帰るから、そのときに田淵さんに会いましょう」

という返事をもらい、田淵さんに伝えた。

その日、田淵さんは新橋かどこかの料亭に席を設けていた。まだ外は明るかったから、昼間の会合だったと思う。酒を飲み、料理を口に運びながらの3人の席は和やかに進んだ。2人はすっかり意気投合したらしい。この場で塩野さんの財団事就任が決まった。

PMFは順調に滑り出した。確か最初の年、PMFのコンサートが横浜で開かれ、私は招待券を頂いて会場に向かった。指揮者は佐渡裕さんだった。
実は招待券を頂いて演奏曲目を知り、全く聞いたことがなかったので違った指揮者で同じ曲を収録したCDを買い求め、予習をした。ところが、全く詰まらない曲なのである。

「こんな音楽を聴きに行くのか?」

とやや腰が引けたが、田淵さんが力を入れている。ここは出かけるしかない。

だが、会場で私の印象は一変した。CDではあれほどつまらなかった音楽が、実に生き生きと聞こえたのである。

「同じ曲なのに、指揮者によってこれほど印象が変わるのか」

とクラシック音楽の不思議さに初めて触れた夜だった。

順調に滑り出したPMFと財団だったが、すぐに暗雲が漂い始めた。1991年、証券業界は損失補填問題に揺さぶられた。証券会社が大口顧客の資産運用を任された際、もし損失が出た場合は証券会社が損失分を補填するという一札を入れていたことが明るみに出た。損がない投資なら、誰だって無限大に株を買う。市場では買いが上回り株価はうなぎ登りになって正常な価格形成をしなくなる。証券会社は非難の的になった。

田淵さんは徹底したサラリーマン社長だった。退職した社員に月額50万円を越える年金を実現したのもサラリーマン社長ならではである。

「大道君、サラリーマンというのはな、自分で自分の身を守らなくてはならない。報告・連絡・相談というのは上司のためにあるように思われているが、あれはサラリーマンが自分を守るためのものだ。報連相さえしておけば、結果がうまく行かなくても責任は報連相を受けた上司が取ることになり、自分を守れるわけだ」

と私に教えてくれたのは田淵さんである。

またある日、

「おい、君のところのTsu君は大タブさん(田淵節也会長)に食い込んでいるんだったな。彼にいっておいてくれないか。大タブさんはいつも刑務所の塀の上を歩くようなやり方をしている。落ちるとき外側に落ちればいいが、内側に落ちればお縄付きだ。不安で見ていられない。塀から降りるように説得してもらいたいんだ」

と私に言ったこともある。
そんな田淵さんが、損失補填の指揮を執ったはずがない。ましてや、野村證券の株屋体質を一掃しようと支店長研修に力を入れた人である。正常な証券市場を築きたいという思いも人一倍だった。そんな人が、こんなことに手を貸すはずはない、といまでも私は信じている。

それでも、田淵さんは野村證券の社長だった。社長は社員の不祥事の責任を取らねばならない立場である。田淵さんは社長を退き、副会長になった。
ある日、副会長になった田淵さんを会社に訪ねた。

「おい、マスコミって酷いものだな。おかげで俺の子ども、孫は極悪人の子ども、孫にされてしまったよ」

初めて聞く弱音だった。

それだけで済めばまだ幸いだった。田淵さんの後を襲って社長になったのはSaさんである。能力にはやや問題はあるものの、上にゴマをすらない肝の据わった人物、自分の安全弁として田淵さんが引き上げた人だ。そのSa社長が総会屋への利益供与で逮捕されたのは1997年である。Sa社長は総会屋を社長室に招き入れたこともあったと報じられた。

この事件を受けて、田淵さんは野村證券の一切の役職を退いた。会いにいった私に

「俺は野村初見がすっかりいやになった。こんな会社にするつもりはなかったのに……。この会社とは一切関わりたくない」

と語った。私が聞いた2度目の弱音である。
私は田淵さんの夢を聞いた人間である。PMFとその支援財団を余生の道楽にしたい。

「財団は野村證券とは別の存在だから、理事長職は続けたらどうですか。いや、続けて欲しい」

と私は説得した。それでも田淵さんの決意は変わらなかった。

「財団は30億円の基金を積むのが目標だった。ところが1990年以降株価が低迷して、まだ3億円(だったと思う)しかない。たったこれだけしか基金がなくては、基金の運用益だけではPMFを運営できない。毎年野村證券から2億、3億の金をもらわなければやっていけない。俺はそんな仕事はやりたくない」

ローマ在住の塩野七生さんも、私と同じ主旨の手紙を田淵さんに送っていたらしい。

「厚みが1㎝ほどもある手紙をローマからもらってな。それでも、俺の心は変わらなかった」

田淵さんは野村證券との関係を一切断ち、浪人になった。