2013
09.03

2013年9月3日 しあわせ

らかす日誌

今朝、2週間に一度の整形外科に行った。
いつもより早くリハビリに呼ばれ、いつもより早く診察室に呼ばれた。

戻って、数日ぶりに高校入試数学問題に取り組んだ。やり続けている「ハイクラス 徹底問題集」である。今日やったのは367と368。「12章 円」の難関攻略問題である。それが、2題で1時間もかけずにすんなり解けた。

私が整形外科医に行くのは、たてまえの世界では仕事をしている時間である。たいした金ではないが、給金をもらっている以上、私の持ち時間ではない。会社の持ち時間だ。だから、整形外科医に私がいる時間が長かろうと短かろうと、私個人が自由にできる時間には関係がない。待ち時間が長くて損をするのは、本来会社のはずである。私は待ち時間を利用して読書していれば済む。
それに、今日待ち時間が少なかったのは、私だけではない。私と同じ時間帯にこの整形外科医にやってきた患者全員の体験である。たまたま

 「今日、医者に行こう」

と決意した人が少なかったに過ぎない。その果実を、今日、通院した人が受け取った。私だけの特典ではない。

であるのに、

「あ、何か儲かったみたい」

と感じてしまうのは何故だろう?

問題集の問題がすんなり解けたのも、たまたま易しい問題が2題並んでいただけかも知れぬ。この間、ウンウンいいながら多くの問題に取り組み、その結果、この手の問題に慣れてきただけかも知れぬ。なのに

「なんかいい日だなあ」

とにやけてしまうのは何故だろう?

閑話休題。
不得意だったはずの図形問題、つまり幾何に取り組んで、いま思う。

「ああ、幾何って、定理、公理の証明を自家薬籠中のものにすれば、かなり全体像が見えてくるんだ」

合同、相似、相似比と面積比、直角三角形に現れる相似、中点連結定理、メラネウスの定理、チェバの定理………。こんな公理、定理が何故成立するのかの証明を何度もやってみて自分のものにする。
啓樹や瑛汰が中学数学の幾何で壁にぶつかったときは、私はそのように指導しようと思う。

映画を沢山ストックしていると、映画のタイトルに

 「幸せ」

という言葉が沢山出て来ることに気付く。

「しあわせの隠れ場所」(2009年、アカデミー賞主演女優賞)
「幸せのちから」(2006年、ウイル・スミス主演)
「幸せのレシピ」(2007年、私がその美しさにうたれたキャサリン・ゼタ=ジョーンズ)
「幸せになるための27のドレス」(2008年。そんなドレスがあればあの娘に買ってあげたい!)
「幸せの1ページ」(2008年、あのジョディ・フォスター登場)
「幸せのポートレート」(2005年、コメントなし)
「幸せのポートレート」(2008年、実話だそうだ)
「幸せへのキセキ」(2011年、マット・デイモンです)
「幸せの行方...」(2010年、実在の未解決事件がモチーフだとか)



まだまだある。
まあ、いずれも日本語のタイトルで、原題は似ても似つかない。例えば「しあわせの隠れ場所」は、「THE BLIND SIDE」である。どうしてこれが、こんな日本語になるのか……。

恐らく、日本人の

「私、幸せになりたい」

病のためである。いま、世界中を見渡して、古今東西を比べて、日本ほど、富めるものも貧しきものも飽食し、明日の糧がないという人が少ない国はない。
なのに、何故か日本には

 「私は幸せではない」

と思い込む人がたいそういる。もっといい暮らしが、いい男が、いい女が、きっとどこかで私を待っている。
そう思わなければ、日々の暮らしに耐えていけないのではないか、という顔がゴロゴロしている。ヨン様に酔いしれて追っかけたおばさま連中は右代表である。
そんな幸せ欠乏症に、映画会社がつけ込む。

「とにかく、タイトルに『幸せ』って入れておけば、客は来るんだよ」

だけど、幸せとは何か、となると、ちっとも姿が見えない。自分にはそれがないことは分かっているのに、じゃあ、何があったらそれが自分にあると確信できるのか、となると答えはない。
許されぬ恋を貫き、やっと2人が2人だけの暮らしを得たところで物語が終わるのは、そのあとを描き続けると、

「幸せだったはずなんだが……」

という現実に直面せざるを得ないからではないか。

 

すんなりと診察してもらえた。
いつも回答を求めて四苦八苦しているのに、今日はすんなり解けた。

ちっぽけな話である。だけど、幸せって、そんなちっぽけなところにしか存在しないのかも知れない。

 

ん。私が買ったサマージャンボの宝くじ。どこからも

「当たった!」

というレポートがないところをみると、すべて外れたらしい。
次も買わねば。
宝くじで3億円。当たれば私は幸せの絶頂に押し上げられるはずだ。

その後?
考えたくもない!