08.07
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の4 オリエンタル中村百貨店
もう解散してしまったが、「憂歌団」というブルースバンドがあった。まだ津支局にいたころ、町の若者たちが
「本物のブルースを聴きたい!」
とこのバンドを津に招き、自力でコンサートを開いた。街の話題として事前に記事にし、当日は冒頭だけ聞かせてもらって支局に飛んで帰り、また記事にした。
その「憂歌団」に「おそうじオバチャン」という曲がある。人がいなくなって深閑とした夜のビルで、モップを手に床を、便所を磨くオバチャンの思いを、ポップなメロディに乗せた名曲である。
その一節に、こんな歌詞がある。
こんなわたしもユメはある
こんなわたしもユメはある
かわいいパンティはいてみたい
きれいなフリルのついたやつ
イチゴの模様のついたやつ
黄色いリボンのついたやつ
アソコの部分のスケてんの
あたいのパンツは父ちゃんのパンツ
名古屋から突然津に戻って、戸惑わせてしまったかも知れない。しかも「憂歌団」? なんじゃ、そりゃ。
私は流通担当である。流通業界とは、百貨店とスーパーをいう。名古屋には百貨店が4つ、大手スーパーが1つあった。松坂屋、オリエン辰中村、名鉄百貨店、丸栄、そしてスーパーのユニーである。
企業としての百貨店、スーパーを取材するには、店頭に行ってもダメである。経営者に会って話を聞かねばならない。スーパーのユニーは店舗とは別に事務所があったが、百貨店は店内に事務所があった。
そして困ったことに、ほとんどの百貨店で、事務所は女性の下着売り場の奥にあった。おそうじオバチャンの夢の商品が並んだ売り場を通り抜けないと、事務所に行けないのである。
当時の私は30歳前後。まだ極めてナイーブであった。ナイーブな男が、女性客しか見当たらず、フリルのついた、イチゴ模様の、黄色いリボンで飾られた下着の間を縫っていかねば、目的地に到達しない。アソコの部分のスケてんの、があるかどうか確かめる勇気などない私は、何となく顔を伏せながらでないと歩けなかったのである。
さて、そんな思いまでして取材しようとしていたのは、オリエンタル中村の店名変更問題だった。私が名古屋に来る前、オリエンタル中村は業績不振に陥って三越の資本を受け入れ、経営陣はみな三越から派遣されていた。それなのに、店名はオリエンタル中村、のままである。
オリエンタル中村はいつ三越になるのか。それがメディアの関心事だった。
いま思えば、どうでもいいことである。すでに経営は三越の手に落ち、店舗のレイアウト、商品の品揃えも三越風になっている。店名が変わろうが変わるまいが、客には何の関係もない。
さらに、店名を変えると決めたら、記者を集めて記者会見で公表することは間違いない。そして、大々的に広告を打つだろう。そんなもの、どうして取材しなければならない?
それなのに、朝日新聞を含めたメディアは、店名変更は必至とみて、「何時か?」を知ろうとした。治にいて乱を求めるのがメディアなのである、としか思えない。
と、いまでは偉そうなことをいうが、当時の私にはそんな見識はなかった。これは私の仕事である。である以上、他社に負けるわけにはいかない。負けたら評価が下がる、などというケチな考えは持たなかったが、リングに上った(上らされた)ら、頭の中は勝つことだけ、というのがブン屋の習い性なのだ。
足繁くオリエンタル中村に通い、下着売り場を抜けて社長、常務、取締役、いろいろな人たちを質問攻めにした。一緒に酒も飲んだ。それが記者の仕事である。
正直な話、あまり記憶に残っていない取材である。あれ、私は抜いたのかな? 横並びだった? それとも抜かれた?
そこで切り抜きをめくってみた。1980年4月15日に
「今秋『名古屋三越」に」
という記事があった。
「関係筋が14日明らかにしたところによると、三越(本社・東京、岡田茂社長)は業務提携をしている名古屋市のオリエンタル中村百貨店(市原晃社長、資本金7億5000万円)の商号を、この秋から『名古屋三越』(仮称)に変更する意向を固めた」
という書き出しである。この書き方から見ると、特ダネである。だが、取材ですべての事実はつかめなかったらしい。(仮称)とか、「意向を固めた」などという書き方は、100%の自信を持てず、いつでも訂正記事が書けるように逃げる文章術なのだ。
俺、こんな記事書いたか? 全く記憶がない。書いたとしいたら、いったいどんな取材をしたのだろう? 誰が
「秋だ」
と教えてくれたのだろう。すべてが忘却の彼方である。どうやら、私はこの取材をあまり楽しんではいなかったらしい。