2024
08.02

桐生は今日から夏祭りです。明日まで。

らかす日誌

今日から桐生は夏祭りである。
桐生の夏祭りは、桐生祇園祭が発祥である。始まった年代ははっきりしないが、16世紀の半ばには記録があるというから、それだけの歴史を備えている。のちに、七夕祭り、商工祭、花火大会なども開催されるようになり、市民こぞって夏の饗宴を楽しんだ。織都を自称する桐生の、勢いを満天下に響き渡らせたとも言える。

が、奢れるものは久しからず。上り詰めればやがて下り坂に差し掛かる。昭和39年(1964年)、これらの祭りが統合され、桐生祭りとなった。いくつもの祭りを開く資金に困ってひとつにまとめたのである。そういえば、桐生祇園祭の開催中は、祭りを中核になって担う各町の若い衆はかつて、祭りの間、町会費で市内の飲み屋を飲み歩いたと聞く。恐らく、

「酒、バンバン持って来いよ!」

という威勢のいい声が飲み屋街に満ちあふれていたはずだ。それがいまはシュンとして音がない。若い衆たちも集会所で乾杯すると、あとは三々五々、それぞれ馴染みの飲み屋にポケットマネーで出向く程度になった。栄枯盛衰が目で見え、耳に聞こえる思いがする。

私は桐生のよそ者である。すでに15年住み着いていてはいるが、よそ者には変わりない。そのよそ者の私に、夏祭りのたびに声がかかるようになったのは6年前からである。
擬龍祇園祭は、本町1丁目〜6丁目の町会が、1年交代で主宰を務める。これを天王番という。6年前、その天王番は本町3丁目だった。その3丁目から

「今年は天王番だからパンフレットを作りたい。原稿を書いて欲しい」

と依頼された。仲介したのはあのO氏である。3丁目には文久2年(1862年)にできた鉾がある。全高7.5m。上に源頼朝像がすっくと立つ。鉾を飾る龍の彫り物には金箔を貼り巡らせて贅をこらした一品である。「翁鉾」という。
その「翁鉾」を書いて欲しいのだという。

私はすでに年金生活者であった。かつてに比べれば収入は相当に細っている。だから、仕事の注文は涙が出るほどありがたい。でも、「翁鉾」? すでに各所でその解説は書かれている。そんなものに屋上屋を重ねるような原稿を書いてどうする? 第一、いつ出来て、誰に彫刻を頼んで、大きさ、重さはこの程度でなどとカタログ風に鉾の説明をしたって、面白くもなんともない。そんな原稿を書いて誰が読んでくれる?
困った。仕事は欲しい。しかし、私にそんな原稿が、読んでみようと思っていただく原稿が書けるか? 書けそうにないなあ。持って来るのなら、もっと簡単な仕事にしてよ……。

しばらく返答をためらった。
あれは、依頼を受けてから半月か1ヵ月ほどたった頃だったと思う。何の気なしにネットで検索していた。3丁目の鉾を書くのに、何かいいヒントはないか?

それを目にしたのはたまたまだった。幕末の桐生を描写した論文が出て来たのである。
何の気なしに読み始めた。面白さに引きずり込まれた。それはこんな話である。

嘉永6年(1853年)に浦賀沖に姿を現したペリー提督率いる4隻の蒸気船が日本の歴史を変えた。その威圧に屈した江戸幕府は国法である鎖国政策を放棄、安政6年(1859年)横浜、長崎、函館の港を米・英・仏・路・蘭の25カ国に開いた。直ちに始まったのが貿易である。そして、日本からの最大の輸出品は絹糸であった。
群馬は絹糸の一大産地であった。桐生が織都を誇れたのも、原料である絹糸が地元で手に入ったことが大きかった。その絹糸が輸出に回り始めた。悪いことに、当時の取引では、絹糸を輸出に回すと国内向けにおろした場合の10倍近い利益を生んだ。糸商はこぞって絹糸を買い集め、横浜の港から輸出した。
困ったのは織都桐生である。原料の絹糸が手に入らない。機音がとまり、機屋だけでなく機織り職人の暮らしも行き詰まった。いつ暴動が起きるのか。桐生は緊張に包まれた。

本町3丁目の「翁鉾」が出来て祇園祭でデビューを飾ったのは文久2年である。注文して2,3ヵ月で完成するような簡単なものではない。恐らく、その数年前には発注されたいたはずだ。とすると、町が暴動一歩手前にあった最中に、3丁目町会は、桐生で初めての鉾を作ることを決めていたことになる。
面白い! いったい何故そんな決断が出来たのか?

この論文に触発されて、私は原稿を書き、パンフレットを作った。その縁がいまだにつながり、夏祭りになると

「大道さん、出て来てよ」

「大道さん、記録写真を撮ってもらえないか」

と声をかけられ、酷暑の中、祭りの雑踏に紛れ込むようになった。

そして今年、またまた3丁目が天王番である。前町会長がわざわざ我が家までおこしになり、

「今年もよろしく」

とおっしゃった。

「いやあ、この篤さの中、体力の限界!

と逃げを打ったのだが、その程度では許してもらえない。

「暑いですよねえ。私も他の5町にあいさつ回りをしたんだけど、途中で倒れそうになりましたもんねえ」

といなされ、結局は今年も1眼レフの重いカメラをぶら下げて祇園祭に参加することになった。
今日は昼食を巣召せてから出かける。幸い日差しはあまり強くなく、予報によれば最高気温は33℃と、

「危険な暑さ」

にはならないようである。

「だけど、親父。新型コロナって体力を衰弱させるから気をつけなよ」

と昨日電話をしてきたのは長男である。
わかった。無理はしない。いうあ、無理が出来る年齢ではなくなったから、そこは心配することはあるまい。疲れそうになったら、エアコンの効いた集会所で待機するさ。

というわけで,本日、間もなく出陣する。

それにしても、この酷暑である。真夏に祭りを開くのはそろそろ無理なのではないか? 祭りの時期を、例えば春のゴールデンウィークに移すという工夫はないものか? そもそも桐生祇園祭は、いまの暦では7月に開かれていたと聞いたことがある。だとすれば、開催時期の変更は可能なはずだが。

「だけどねえ、そんな提案をする人もいそうにない。やっぱり、1人か2人、熱中症で死ななきゃ日程は変わらないZんじゃないの中ねえ」

おいでになった3丁目の前町会長と、そんな物騒な会話をした私であった。