私と朝日新聞 2度目の東京経済部の49 こんな訂正もありました
思わず、 「ウッソー!」 と言いたくなる訂正記事の話をご紹介しよう。経済企画庁…
思わず、 「ウッソー!」 と言いたくなる訂正記事の話をご紹介しよう。経済企画庁…
次の担当は経済企画庁(現在は内閣府の一部)だった。就任したのは1990年前後だったと思う。…
そろそろ証券業界担当から離れなければならない。 その前に、1つだけ書いておきたいエピソー…
証券業界を担当した2年ほどの間、私は結構身を入れて仕事をしたと思う。ところが、あのインサイ…
朝日新聞が先鞭をつけ、新日鉄幹部の株取引手口をすっぱ抜いて盛り上げたインサイダー取引事件は…
「そんな! あなたは取材を受けると約束したじゃありませんか!」 といってみたところで…
インタビューをするには相手の協力がいる。口を開く気がない相手ではインタビューは成り立たない…
「新日鉄の本社って、丸の内でしょ。提携の担当者だったら本社にいるはず。だから、山一証券で株…
しかし、である。新日鉄と三協精機の提携にからんでインサイダー取引(当時はまだ犯罪ではなかっ…
さて、仕事の話を書こう。いや、田淵さんと仲良くなることも大事な仕事だったが、ここから書くの…
私が証券業界担当になったとき、 「野村證券に食い込むのは無理!」 と、お節介に…
そろそろ、田淵さんの話を終わられねばならない。 田淵さんを追い回していた証券担当のこ…
東京・駒沢の田淵さんのマンションに我がファミリーが初めてお招きいただいたのは、確か正月だっ…
浪人になった田淵さんに久々に電話を入れたのはいつだったろう? 「田淵さん、お元気です…
田淵社長には文化に貢献したいという夢があった。社長在任中、世界中の音楽家の卵を札幌に集めて…
田淵さんの話を続ける。 ある時、田淵さんが突然いいだした。 「俺は野村證券を理…
時間軸を無視して、田渕社長の話を続ける。 ある夜回りの日、私はずっと気になっていた人…
「大道君、先日はご馳走になったな。今度はこちらがご馳走そうする番だ。いつがいいか?」 …
「田渕さん、飲みに行きませんか」 と私が初めて誘ったのは、1988年3月だった。この…
最初に。 昨日書きわすれたことがあった。私は田淵社長に向かって 「私はあなたの訃報…
野村證券の社長、会長から電話1本で情報が取れる体制を作る。許された時間は3ヵ月。 1…
新しい業界、企業を担当する。まず行うべきは、あいさつである。そして、企業を知るにはまず社長…
「Tokyo Money」の連載が終了したのは1987年12月21日・日曜日である。札幌か…
そろそろ、私の世界一周の旅も終わりである。 ニューヨークで重いスーツケースを引きずりなが…
東京とニューヨークの時差は13時間である。ニューヨークで6日午後6時の時、東京は7日午前7…
私がニューヨークに着いたのは1987年10月18日の日曜日である。この日付は明瞭に記憶にあ…
米国の首都ワシントンには、経済部の先輩Taさんが特派員としていた。テレビ朝日・ニュースステ…
グランドケイマンで取材に訪れた先は、カナダ・インペリアル銀行(CIBC)ケイマン支店である…
グランドケイマンに到着したのは夕刻だった。まず、予約してあったホテルにチェックインする。次…
今回は、激痛を発し続ける腹を抱えて私がグランドケイマンにたどり着くまでの経緯を書かねばなら…