私と朝日新聞 2度目の東京経済部の68 宮路年雄という人
足繁く、とまではいわないが、私は結構頻繁に城南電機を訪ねた。宮路社長がいればすぐに社長室に…
足繁く、とまではいわないが、私は結構頻繁に城南電機を訪ねた。宮路社長がいればすぐに社長室に…
「ビジネス戦記」は、いわゆる聞き書きで作り上げる。私たち記者が取材先から話をうかがい、取材…
宮路社長にはよくご馳走になった。 「お返しを」 といっても、応じてくれる人では…
城南電機、宮路年雄社長のロールス・ロイスの話を続ける。 「お父さん」 と私に声…
そんなことを繰り返しながら、だが、私と宮路社長の仲は急速に接近した。どうやら私は宮路社長の…
家電品の価格のからくり、流通の問題は是非記事にしたいテーマだった。どんな仕組みがあるから販…
この頃私は、家電製品の価格のからくりを知りたくて仕方がなかった。同じメーカーの同じテレビで…
「カタログ」というコーナーも、ウイークエンド経済の定番だった。故花森安治氏を真似たわけでは…
クリスキットの桝谷英哉さんにコラムの執筆をお願いしたのも、ウイークエンド経済だった。もちろ…
ウイークエンド経済の紙面はフロント面だけではない。ほかにもいろいろな趣向があった。 その…
福岡で起きたことは「編集部調査報告第2弾」で読者に伝えた。それで終わっても良かったのかも知…
フロント面で中古マンションの価格動向を特集したことがある。このころ、中古マンションは全国的…
桐生が突然の停電に見舞われた。27日午後1時35分の出来事である。 ブチッという音と…
「私と朝日新聞」の連載を中断して、最近私に起きた事故を書いておく。 事故が起きたのは…
ここまで書いてきて、大変な間違いをしでかしていたことに気が付いた。 2度目の東京勤務のこ…
名古屋では、意図した訳ではないが、クリスキットの普及にも一役買った。 「えっ、このス…
単身赴任中、私は月1度の割で横浜に帰省した。移動はマイカーである。当時の愛車は紺色のホンダ…
この若者となら、是非一緒に仕事がしてみたい、という受験生が1人だけいた。名古屋大学の男子学…
仕事といえば、これも仕事である。ある年、私は入社試験の面接官を仰せつかった。 私が入…
All the News That’s Fit to Print. これはニューヨー…
トヨタ自動車広報課長のYaさんと飲み友だちになるのにたいした時間はかからなかった。私はでき…
「あ、みんな気が付いてはいるんだ」 技術者たちとの、まずは名刺交換、おずおずとした自…
トヨタ自動車取締役の渡辺捷昭(かつあき)さんと初めてお目にかかったのは、野村證券名古屋支店…
ここまで書いてきて、名古屋に2度目に赴任してから後しばらくの記憶が曖昧なのに気が付いた。名…
私が2度目の名古屋在勤時代、中部電力会長だった松永亀三郎さんのことを書いておきたい。東海銀…
長期戦だった東海銀行不正融資事件もほぼ終幕が見え始め、朝日新聞は連載を始めた。事件の総まと…
私たち、朝日新聞チームの取材が進み、東海銀行の恥部ともいえる話が紙面を飾ることが重なると、…
名古屋経済部には2人のデスクがいた。デスクとは記者が書いてきた原稿を、新聞に掲載するに足る…
東海銀行秋葉原支店の不正融資事件の取材はずいぶん長く続いた。3ヵ月? 6ヵ月? 記憶ははっ…
それにしても、私は東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)とは、何か不思議な縁で結ばれていたようで…
昼食はスパゲティが多かった。まずは麺を茹でなければならない。 うどんやラーメンの麺と、ス…
確か、ちょうどその頃だった。書店を散策していた私は1冊の本に出会う。「丸元淑生のシステム料…
前回の名古屋勤務は家族を伴っていたので、名古屋市千種区に会社が借り上げている3DKのマンシ…
再び東京を離れることになった。行き先は名古屋である。 しばらく前に、経済部長と喧嘩をして…
記者会見が始まった。経済部長の友人は大学教授(確か、筑波大学だった)を連れていた。この教授…
「大道君」 と経済企画庁の記者クラブに電話をよこしたのはHa経済部長だった。部長直々…
民間出身初の女性閣僚として高原須美子さんが経済企画庁長官に就任したのは、記録を調べると19…
バブルといわれた時代、日本の株価は天井知らずの上昇を続けていた。日経平均株価は1989年1…
経済企画庁は経済官庁である。その活動で、もっとも注目されたのは四半期別GDP速報(当時、Q…
思わず、 「ウッソー!」 と言いたくなる訂正記事の話をご紹介しよう。経済企画庁…
次の担当は経済企画庁(現在は内閣府の一部)だった。就任したのは1990年前後だったと思う。…
そろそろ証券業界担当から離れなければならない。 その前に、1つだけ書いておきたいエピソー…
証券業界を担当した2年ほどの間、私は結構身を入れて仕事をしたと思う。ところが、あのインサイ…
朝日新聞が先鞭をつけ、新日鉄幹部の株取引手口をすっぱ抜いて盛り上げたインサイダー取引事件は…
「そんな! あなたは取材を受けると約束したじゃありませんか!」 といってみたところで…
インタビューをするには相手の協力がいる。口を開く気がない相手ではインタビューは成り立たない…
「新日鉄の本社って、丸の内でしょ。提携の担当者だったら本社にいるはず。だから、山一証券で株…
しかし、である。新日鉄と三協精機の提携にからんでインサイダー取引(当時はまだ犯罪ではなかっ…
さて、仕事の話を書こう。いや、田淵さんと仲良くなることも大事な仕事だったが、ここから書くの…
私が証券業界担当になったとき、 「野村證券に食い込むのは無理!」 と、お節介に…
そろそろ、田淵さんの話を終わられねばならない。 田淵さんを追い回していた証券担当のこ…
東京・駒沢の田淵さんのマンションに我がファミリーが初めてお招きいただいたのは、確か正月だっ…
浪人になった田淵さんに久々に電話を入れたのはいつだったろう? 「田淵さん、お元気です…
田淵社長には文化に貢献したいという夢があった。社長在任中、世界中の音楽家の卵を札幌に集めて…
田淵さんの話を続ける。 ある時、田淵さんが突然いいだした。 「俺は野村證券を理…
時間軸を無視して、田渕社長の話を続ける。 ある夜回りの日、私はずっと気になっていた人…
「大道君、先日はご馳走になったな。今度はこちらがご馳走そうする番だ。いつがいいか?」 …
「田渕さん、飲みに行きませんか」 と私が初めて誘ったのは、1988年3月だった。この…
最初に。 昨日書きわすれたことがあった。私は田淵社長に向かって 「私はあなたの訃報…
野村證券の社長、会長から電話1本で情報が取れる体制を作る。許された時間は3ヵ月。 1…
新しい業界、企業を担当する。まず行うべきは、あいさつである。そして、企業を知るにはまず社長…
「Tokyo Money」の連載が終了したのは1987年12月21日・日曜日である。札幌か…
そろそろ、私の世界一周の旅も終わりである。 ニューヨークで重いスーツケースを引きずりなが…
東京とニューヨークの時差は13時間である。ニューヨークで6日午後6時の時、東京は7日午前7…
私がニューヨークに着いたのは1987年10月18日の日曜日である。この日付は明瞭に記憶にあ…
米国の首都ワシントンには、経済部の先輩Taさんが特派員としていた。テレビ朝日・ニュースステ…
グランドケイマンで取材に訪れた先は、カナダ・インペリアル銀行(CIBC)ケイマン支店である…
グランドケイマンに到着したのは夕刻だった。まず、予約してあったホテルにチェックインする。次…
今回は、激痛を発し続ける腹を抱えて私がグランドケイマンにたどり着くまでの経緯を書かねばなら…
しかし、である。入国の際のゴタゴタから始まって、メキシコは思い出深い国である。 メキ…
メキシコシティを訪れたのも、「キャピタル・フライト」の取材の一環である。そもそも、金が逃げ…
サンディエゴ空港であんな出来事があったのである。私の旅、無事に済むわけがない。ロサンゼルス…
サンディエゴからメキシコシティに行くのは、ロサンゼルス経由である。この乗り継ぎ便で一騒動あ…
サンディエゴでは、国境の検問所を見た。アメリカからメキシコへ、メキシコからアメリカへ、人や…
サンディエゴについては、やっぱり「グルメらかす」で書いている。ここも読者の手を患わせること…
次の目的地は、アメリカ・サンディエゴである。ここでは「キャピタル・フライト」を取材する。キ…
そろそろロンドンを離れなければならない。ロンドン最終回の一部はコピペ、残りは 『確か…
ダブリンで1泊した私は、再びロンドンに戻って「プロジェクト金融」の取材を続けた。ロンドンで…
実は、ここまで書いてきてある障害にぶつかった。私の「Tokyo Money」世界一周の旅は…
その頃、東京で膨れあがったお金は国内では使い切れなかった。米国の金融市場、不動産市場に流れ…
ロンドンはもちろん初めて足をおろす町である、確か、ヒースロー空港に着いたのだと思う。私は行…
「パンダとクマ」の原稿を仕上げた私には、もう香港に用はない。次の目的地、ロンドンを目指すば…
もちろん、香港では買い物ばかりしていたのではない。ちゃんと取材もした。 ところが、どんな…
9月28日に始まった重粒子線による治療が今日で終わった。これで前立腺にがんが再発しない確率…
「Tokyo Money」の旅は、私にとって「内外価格差」の実情を知る旅でもあった。取材が…
私が世界一周の旅に出かけたのは1987年9月のことだった。香港からロンドンに向かい、アイル…
「Tokyo Money」の連載は7月から始まった。まず2回目が私の担当だった。掲載された…
「Tokyo Money」はYaさんと私でまとめる連載である。Yaさんは、直前は確か金融担…
東京に戻ってきた。時は1987年5月である。 横浜の我が家では長男が公立の中学校1年生と…
妻女殿の両腕の手首か先が真っ白になったのは、札幌で初めて迎えた冬だった。 「なんでこ…
私は家族を、三重県津市⇒岐阜県岐阜市⇒名古屋市⇒千葉県浦安市⇒横浜市鶴見区⇒札幌市、と連れ…
札幌出身、東京の女子中高一貫校で長く働き、いまは桐生に移り住んでいるMa氏なる友人がいる。…
道東旅行3日目。何事もなくバンガローで目覚めた。手近なもので朝食を済ませると、私たちは車に…
夏休みを利用して道東を旅したのは1985年8月である。 「旅をしたい」 と言い…
蘇ってくれる記憶に関する限り、札幌での仕事の話は出尽くした。これからしばらく札幌での暮らし…
札幌に赴任したサラリーマンは2度泣くといわれる。 1度は札幌転勤の辞令が出て 「あ…
私に、東京経済部に戻れとの辞令が出たのは1987年3月末か4月頭のことである。この年、統一…
札幌での仕事に関することでまだ書いていないことをを思いつくままに拾ってみる。 【大晦…
人には相性というものがある。北海道にどうしても相性が合わないデスクがいた。社会部から来た …
何度か東京に出張した。そのたびに、人の感覚の不思議さを思った。 札幌は大都会だと言わ…
仕事の話を続けよう。 道庁を担当して半年ばかり過ぎたころ、私は「道内経済面」を立ち上げた…
まだ道庁担当だったから、札幌赴任から半年もたっていない時のことである。北海道の自民党が集会…
あれは選挙の取材だった。季節は真冬。厳寒期の2月だったと思う。私は池田ワインで有名な池田町…
私が札幌にいた1985年から87年という時期、北海道は不況のどん底にあった。造船が振るわな…
Muの話を続ける。 ある朝、Muは私の顔を見るなりいった。 「Ma、あいつはひ…
前回ご登場いただいた、政治部から来たデスクをMuという。私の着任時は、政治部から来たデスク…
横路知事がらみのの話を続ける。 1987年、横路知事は再選を目指して道知事選に立った…
横路知事に同行して、函館に行ったことがある。知事が函館の若手経営者と懇談する。その会合は公…
実は、札幌以降のことはほとんど記憶に頼るしかない。そのころから自分で書いた記事の切り抜きを…
札幌のことは、「グルメらかす」で書いたことがある。これからの記述は、あの時書いたこととダブ…
ほぼ週1のペースで柔道を楽しみ、時にはおかしな釣りに出かけ、取材をして特ダネで1面トップを…
役所内を廊下トンビする。官庁担当記者の毎日である。聞き出したい話を持っている官僚氏、暇そう…
建設省担当時代を思い出すため、当時の切り抜きを見ていて、1つの記事が目にとまった。「デスク…
新聞記者にも、ほんのちょっとした役得はある。私が経験した役得は、どうでもいいような会話から…
私を柔道に引きずり込んだ I さんは面倒見のいい先輩だった。恐らく人脈も広く、早稲田大学の…
建設省には省内誌があった。誌名は忘れたが、そこから声がかかった。 「大道さん、何か原…
土地・住宅問題に関わる記事を沢山書いたからだろうか、住宅局の官僚諸氏とはすっかり仲良くなっ…
さて、そろそろ仕事の話に移ろう。 住宅問題は社会問題であるだけでなく、相変わらず私の…
通産省を1年担当すると、私は建設省担当を命じられた。それまで経済部に建設省担当はいなかった…
Saさんは私が通産省担当になった当時、貿易局総務課の課長補佐だった。東大卒が掃いて捨てるほ…
「東京経済部の3 またまた引っ越しました」で書いたように、のちに横浜市鶴見区の義父の敷地に…
通産省担当になって、夜回り取材はほぼ習慣となっていた。昼間は通産省内を廊下トンビして取材(…
とんでもない事件が起きたのは、私が通産省担当になって3ヶ月もたたない1982年6月のことだ…
さて、私は通産省担当としてどんな仕事をしたのか。 スクラップをめくると、マクロ経済の動き…
「大道君、君は記者会見で質問してるかね」 夜の遅い時間、会社の経済部に顔を出した私に…
私が通産省担当になった1982年4月、時の首相は鈴木善幸氏だった。通産大臣は安倍晋太郎氏で…
ちょっと脇道に逸れる。私の住まいである。 浦安に引っ越した我がファミリーは、しばしば…
東京経済部で最初の担当は通商産業省(現経済産業省)であった。2度の石油危機を乗り越えて、日…
前回、 「一路東京を目指した」 と書いたが、実際に目指したのは東京を通り抜けた…
名古屋を離れる前に、どうしても触れておきたい人がいる。スーパー、ユニーの広報室長だった加藤…
一瞬にして血の気が引く経験など、そう滅多にあるものではない。私が真っ青になったのは1982…
工販合併へ、のl記事を書いたころ、私は絶好調だったようである。 その話も、工販合併の話を…
余震は、それからも続く。 まず、日本経済新聞のトヨタ担当記者が1人から4人に増えた。…
新聞には「早版交換」という習慣がある。印刷所から遠いところに届ける新聞を早版という。早く送…
名古屋本社経済部でデスクと顔を合わせたのは昼過ぎだったろうか。 「それで、大道。詳し…
東京での宿は、今回も横浜の妻女殿の実家である。ここに泊まれば出張費が浮くのだから、これはや…
12月に入った。取材は遅々として進まない。いや、遅々でもいい。少しでも進んでくれればなにが…
新聞記者は足で稼ぐ、といわれる。机の前に座っていてもネタは集まらない。とにかく歩く。歩いて…
トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売は合併するのか、しないのか。 そういえば、記者連中の間…
「ねえ、大ちゃん」 私は余程親しみ易い性格らしい。大道君、という人もいたが、少し親し…
10月30日、第24回東京モーターショーが東京・晴海で始まった。トヨタ担当は、自動車ショー…
前回、記者は記事を「書かされる」と書いた。情報源と読者を繋ぐのがメディアである以上、それは…
トヨタ担当は、トヨタ自動車だけを取材するのではない。デンソーなどトヨタグループの会社も取材…
名古屋経済部で最重要とされる仕事はトヨタ自動車担当である。ほかの企業ニュースは名古屋圏ロー…
本が読めない、と自分で自分に驚いたのは名古屋経済部に行ってからである。企業の決算書を理解し…
1981年、トヨタ自動車工業は高給クーペ「ソアラ」を発売した。 「ソアラ」はトヨタと…
松本部長が東京経済部長に転出した。栄転である。代わりにKa氏が名古屋経済部長として着任した…
1年ほどで私は流通、証券、東海のくらし担当から金融担当となった。銀行が取材先である。そのこ…
松本経済部長は時折、記者クラブに私を訪ねてくれた。あれほど経済部を嫌っていた男のその後が気…
ある日、スーパー、ダイエーの創業者、中内㓛さんにお目にかかるために神戸の本社まで出かけた。…
名古屋本社経済部で「私のヒラ時代」という連載が始まったのは、確か1980年の春ごろではなか…
もう解散してしまったが、「憂歌団」というブルースバンドがあった。まだ津支局にいたころ、町の…
私が書くことになった生活情報は「東海のくらし」といった。毎週月曜日の朝刊に掲載された。野菜…
自宅から会社に直接出勤したのは初日だけである。翌日からは会社には行かず、直接取材先、あるい…
名古屋で住まったのは東名高速名古屋インターからほど近い千種区星ヶ丘の朝日新聞借り上げ住宅だ…
「松本さんから電話があったわよ」 夜10時半頃帰宅すると、妻女殿がそういった。197…
岐阜支局の上司の話を書き留めておきたい。 支局長は足立健夫さんといった。私たちは「健…
岐阜に転勤した1978年4月、長男が幼稚園入園の年齢に達した。その2歳下には長女がおり、子…
「憲法特集」で知り合った近藤宏先生には、本当にお世話になった。近藤先生は教壇に立つ傍ら、岐…
黄色い帽子 義務化に反対“デモ” 話し合いの末やっと納得 岐阜市岩野田小学…
みそ汁 責任持ち家事分担 体験通じ親子にきずな 美濃市洲原小学校に「力いっ…
秘密 自発的に月を観測 先生の休んだ日に相談 11月17日朝。前の日、頭痛…
背筋力よいしょ 目立つ異常な低下 町ぐるみで強化運動に 上矢作の町を歩けば…
どろんこ大作戦 砂だんご割りっこ “新技術”開発し夢中に 先生も、上級生も…
スイカ つくれたぞ! 70個 畝から自分たちで世話 この秋、羽島市小熊小学…
悲しみの砦 朝鮮の人を考える 強制連行の悲劇を劇化 学校へ行くときや学校か…
事件 他人の痛み知った 作文や話し合いが効果 この冬のある日、中津川市南小…
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二世誕生 蚕の生命力に感動 発表したい子が目白押し 小さな紙箱の中で、針先…
ヒマワリ 感動が生んだ自信 野外学習がきっかけに 哲也君は高山市南小学校の…
乗車拒否 1時間の通学大行進 「運動ぐつ、いいとこ2ヶ月ね」 道端にそびえ…
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忘れられない選挙報道がある。1979年春の岐阜県恵那郡上矢作町(現在は恵那市上矢作町)の町…
どこかに行ってしまったと思っていた記事が見付かった。「岐阜支局の7」で書いた「比較的長文の…
私は、徳山ダム問題の長い歴史の中の、たった1年しか担当していない。その1年の間に、徳山村は…
私の岐阜時代を書くのなら、徳山ダムを避けては通れない。何しろ、岐阜への転勤が決まった後、「…
岐阜ではもう1つ、大きな裁判を担当した。長良川河口堰訴訟である。治水、利水を目的に、長良川…
私が津市で 「なんという頓馬なテレビ記者がいたものか」 あきれた長良川の水害は…
1978年秋、岐阜県は県の事業に反対する住民を警察を使って排除し、事業を開始した。あらまし…
浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ と宣うたのは、確か石川五右衛門だった。泥…
「大道君、ちょっと」 とデスクに呼ばれたのは4月半ばだった。デスク、名を松本行博さん…
PANTAが死んだ。 頭脳警察のPANTAが身罷った。 横浜の我が家に遊びに来たPAN…
私が岐阜支局に転勤したのは1978年4月のことだった。 まだ津に在任中の1976年9…
津支局の最後は、ちょっと良くて、あとで悪くなった話である。 私が入社するずっと前、朝…
前にも書いたように、私が入社した頃の原稿用紙は、巻きが小さくなって輪転機にかからなくなった…
そろそろ津市を去る時が迫ってきた。しかし、その前にあと3つだけ書いておきたいことがある。今…
今日は群馬大学医学部付属病院の放射線科に初めて行った。ゆえに、私と朝日新聞を中断して近況報…
1年間の三重県警担当を離れた私は、市政担当となった。事件・事故の取材も、その背景まで視野を…
いま横浜に来ている。この連載の参考にしようと昔の切り抜きを引っ張り出した。私が記者として初…
私が三重県警を担当した時、県警本部長は佐々淳行さんだった。警察庁のキャリア組で、普通なら三…
警察取材の華は汚職事件だろう。政治家、実業家、高級官僚など日頃権勢をふるって偉そうな顔をし…
三重県警を担当したのはちょうど1年間だった。この間の記憶は甚だ曖昧である。特に時間の前後関…
久しぶりに三重県警の記者クラブに戻って数日後のことだったと記憶する。愛知県と三重県の県境あ…
津での署回りは1年半で卒業した。次は三重県警担当である。 新聞記者2年生になった私は…
署回りとは、事件、事故を追いかけていれば済む仕事ではない。そもそも地方都市の津市、久居市で…
入社から7ヶ月たって、1975年度の入社式と新人研修があり、私も参加した。その年、朝日新聞…
署回り担当とは、管内で発生する事件、事故を取材して原稿にする仕事である。つまり、事件、事故…
私が麻雀という遊びを覚えたのは津支局に行ってからである。大学時代に覚えたという人が多いよう…
津で私は1度引っ越しをしている。 最初に入ったのは、支局のHデスクが事前に探してくれてい…
ある日、津市の我が家に泥棒が入った。 当時は3DKのアパート住まいだった。2階で、玄…